「この世界の片隅に」 2014年に監督が言っていた、「世界を描く」ということ

2014年5月3日、広島ではフラワーフェスティバルという60万人規模のお祭りが開かれていて、なんとなくそのあたりをぶらぶらしていると、旧日本銀行広島支店の建物で、なにかアニメに関連した催しをやっていた。

「調べて描く『この世界の片隅に』の世界展」。

片渕須直さんというアニメーション監督が講演しているようだ。入って聞いてみることにした。

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* * *
入ると、ちょうど講演している途中だった。とりあえず空いていた後ろのほうの座席に座って、メモを取って聞くことにした。

* * *

フランスで上映したとき、『この作品でフランスを舞台にした理由は何故か』と質問された。
自分としては、フランスを舞台にしたつもりはなかった。フランスの古い衣装を使ったからそう思われたのか。それによってそう思われてしまうのなら、もっとフランスっぽいものにするか、逆にフランスっぽさがないように描いた方がよかったのではないか。
一方で通訳には、「なぜ日本人は海外を一生懸命描くのか」と言われた。
そうした経験をもとに、今度は日本、山口県防府を舞台に「マイマイ新子と千年の魔法」をつくった。そして「この世界の片隅に」に出会った。

* * *

メモからすれば、こんな話しから聞き始めたようだ。たぶん最初の「フランスを舞台にした」と勘違いされた作品は、映画として片渕監督の前々作であった「アリーテ姫」のことだろう。原作は英国の児童文学だ。
それから聞いたのは、広島に居ても今やそうそう見聞きすることのない、戦前の広島と呉の風景・風俗、その正確な描写に賭ける、アニメーション監督の執念だった。

* * *

片渕監督は、ノートパソコンから「この世界の片隅に」の漫画の1コマ目を映写した。
1コマ目は、幼い主人公のすずが、親にお遣いを言い付かる、ほぼ正方形に近い大きなコマだ。
背景は屋外を描写している。黒い正方形のものが縦に複数枚貼っつけてある板が、塀に立てかけられている。

「この場面を映画として描くには、横に広げなければいけないんです」

映画の16:9の画面サイズに合わせるためには、漫画の情報では足りないというのだ。

「まずこのコマの舞台である江波ってどこなのか、そしてこの背景は何なのかがわからない」
そこで監督は広島市中区江波に行き、いっぱいの写真を撮ってきたというのだ。写真を映写する。

「どうもこの辺らしいんですけど、漫画に描かれている風景とは全然違っていた。昔はここに防波堤があった」

昭和9年(漫画の原作では昭和9年1月。ただしその後聞く話では、今上天皇の生誕が昭和8年12月23日であるため、その直後である昭和9年1月の市街地の様相は普段とかなり違っていたと考えて昭和8年の出来事に変更している)の江波と、平成の江波とでは当然にして風景が異なる。特に江波は、埋め立てが進んでしまっている。そこで、古い写真も集める必要があった。

「そうしてようやく描けるようになったのがこの絵です」
そういって監督は線画を出した。漫画のコマに描かれた風景が横長に広がった。

* * *

横長に広がったイラストは、一見すればなんてことのない風景画である。
そのなんてことのない、一瞬しか映らない背景のために、いったいどれだけの労力を要しているのか。
映画が1本120分が標準だとすると、その120分のための労力とはいったいどれほどのものだろうか。気の遠くなるような話だ。

* * *

監督は言う。
「調べ物をしてもしなくても、想像でも描くことはできる。でも調べ物のおかげで、漫画に描かれたここがどういう土地か、日の光はどこからなのか、この背景にある松は最近まで生えていたんだとか、そういうことがわかる。『この世界』がどういう『世界』を描こうとしているのかがわかる。
 すずがお使いのために歩く道はどういう道なのか。調べると、ここはバスが通っていた道だということもわかる。バスに乗らない子なんだ、自分の足でてくてく歩く子なんだな、ということがわかる」

* * *

監督がそれだけ調べているからには、原作も相当調べられて描かれているのだろう。しかし本当に、原作はそれだけの考証に耐えるものなんだろうか。原作者のこうの史代先生には失礼ながらもそう思っていると、今度は別のコマが映写された。

「すずが中島本町の料理屋に海苔を届けに行く場面のコマですが、橋があって、奥にもう1こ橋がある。年代が進んだ場面でも、同じような橋が出てくる。しかしこの2つの橋をよく見ると少し違うんです」

描かれた橋は、広島市民に知らない人はいない「相生橋」だ。相生橋は、上から見るとT字の形をしていて、それゆえ原爆の投下目標になったとされる。近くには原爆ドーム旧広島市民球場跡地、広島の交通の要衝である広島バスセンターその他があり、広島の中心地を象徴するものだ。

「昭和9年は相生橋はT型になっていないんです」

相生橋がT字型になったのは、昭和13年から昭和15年にかけてである。昭和9年の1月には形が違っていた。こうの先生は、それをなんの明示もせず描き分けているというのだ。

「こうのさんは漫画の中で絶対に、同じところの風景がなぜ違うのかということを描かない。実際の世界はそのままで存在するのだからと考えていらっしゃるのだろう」

作ろうとする映画においても、何年何月のこの場所はこうだった、というのを描かなければならない、と監督は言う。

このこだわりは、たとえば、橋の欄干を描いても、ある戦前の写真ではこうだったとして描いてみたが、この年のこの月は違う形の欄干だったとして書き直し、また、戦中の広島駅を描きたくても戦前と戦後の写真しかなく分からないから描かなかったりなど、徹底されている。
自分はこれまで漠然と、戦前は戦前として塊のようにとらえていた。そこに年月の移り変わりがあることをちゃんと理解していただろうか。自分を恥じ入る気持ちになる。

* * *

こうの史代片渕須直のこだわりは、風俗史にも表れている。
昭和9年の場面では、すずの後ろでヨーヨーをやっているセリフなしの子どもがいる。

「この時期突然のヨーヨーブームだったんです。小津安二郎の『非常線の女(昭和8)』にもヨーヨーが出てきます。昭和8年から1年くらいのブームだったらしいです。まさにこの時代がそうだったのかと思います。昭和9年1月というのはそういう時期なんです。そういうものがあつまって『この世界』ができています。戦争をやっている中でもご飯をつくったり、そういう小さなディテールが集まって『世界』が出来ているんです」

そんな何気ない場面に、「世界」が詰まっている。こうの史代もすごいが、それを読み解く片渕須直もすごいと思う。
すごいと思うが、こういうことを積み重ねることで、「世界」に近づくことを確信しているのは、さすがに表現者であると思う。

「こんなことを調べているから、映画がなかなか完成にたどり着かないんです。ただ、その分豊かなものができるのではないかと思っています」

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話のあとに、Q&Aコーナーがあった。
しかし、どうぞと促されてもなかなか1つ目の質問というのは出てこないものである。

ちょっと間があって、私のそばにいた人がすっと手を挙げた。
どこかで見たことのある人である。放送大学のキャラクターを創った人として見たことがあるような…それは、こうの史代先生ご本人であった。
「古い写真は殆どモノクロ写真です。漫画は色がないからモノクロ写真を参考にしても簡単でした。しかし映画だとそうはいきません。色はどうしていますか」
――「色はわからないことがすごく多いんです。呉のバスも、塗装の形はわかっても色がわからなくて…。」
そうして、考察の結果、こうだろうというところまで辿り着いた、呉の市バスの塗色を説明したのだった。
こうの先生は、広島出身ではあるが、広島在住ではない。わざわざ広島まで来て、この講演を見に来たのだ。それだけこうの先生のこのアニメに対する期待が高いのだろうと思わせた。

その後の一般の人の質問(別に先生タイム・一般の人タイムがあったわけではないが)では、このアニメをどうお客さんに見てもらうかの苦悩が垣間見えた。

「近所の子に古いディズニーアニメを見せたけど、あまり興味がないようだった。デジタルのアニメに慣れてて手描きが受け付けないというのがあるのだろうか」
――「私が子供のころは5時からずっとアニメをやっていましたが、最近の子はアニメを見る習慣が薄れているのではないかと思う。子どものためのアニメってそんなに多くなくなっているんです。機会があるごとに、アニメがこんなに面白いということを上映会などで知らせられればと思う。
また、子どもだけでなく、自分のような50を過ぎた人がアニメのターゲットから外れているとも思う。以前制作したマイマイ新子は年齢が上の方にも見てもらえたが、今回もそういう作品になるかもしれない。
しかし、子供向けでも若者向けでもないアニメは、一般の人に気付いて、振り向いてもらえない。アピールが足りないのかもしれない。でも難しい。なんとかいっぱい色んなことをやって世に仕掛けて、周知を考えていかなければならないと思う。今のアニメは、子供だけでなく、大人にも興味を持ってもらえていないのかもしれない。そこを変えていくものを作りたい」

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(片渕監督)

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2014年でも「映画がなかなか完成にたどり着かない」と言っていたけれど、そこからさらに2年経ち、ついに映画が完成し上映された。公開初週のランキングは10位だったが、その後4位までランキングは上がり、あちこちのメディアで取り上げられている。
大人が見ている、若者も見ているし家族連れだっての子供も見ているようだ。
本当にこの映画が完成してよかったと思うとともに、こうして露出が増え、色々な層の観客が増えていくことは、監督にとってきっと大変な喜びであろうと思うと、うれしさを感じる。片渕須直監督の「調べて描く」に、不遜ながら敬意をあらわすしかない。*1

広島市は千羽鶴の処分に年間1億円をかけて「いない」

新刊「ボランティアという病」

今年8月に「ボランティアという病」という宝島社新書が発行され、アマゾンの「ボランティア」カテゴリで売れ筋1位を獲得したそうだ*1

ボランティアという病 (宝島社新書)

ボランティアという病 (宝島社新書)

内容についてはアマゾンの紹介を読んでいただければと思う。
このエントリーでは、この書籍の本題とちょっと違うこと、けれど、この書籍に書かれてしまったことを取り上げたい。


この書籍は、下のツイートで初めて知った。
https://twitter.com/ke_1sato/status/762788906811043841 (リンク切れ *2 )
千羽鶴は支援のフェーズによるという考えは、「被災地への千羽鶴問題」を語る点で重要だと思う。
しかし、ちょっと待ってほしい、「広島市で年間1億円をかけて千羽鶴を処分する」という話が書籍に書かれているの……!?

千羽鶴に1億円」は、4月から5月にかけてネットで話題になっていた

千羽鶴の焼却処分費に1億円」という話は、「平成28年(2016年)熊本地震」(4月14日以降に発生した一連の地震をいう)の発生を受け、「震災直後の被災地に千羽鶴を送るべきではない」という呼びかけとともに、4月20日ごろから5月初旬にかけてネットで話題になった。
その内容は、広島平和公園に寄せられる千羽鶴は1年間に10トンであり、広島市はその焼却処分費に年間1億円を掛けている、(だから被災地に負担をかけてしまう千羽鶴を送るべきではない)というものだった。
この話題を初期に取り上げたのは、「おち研」さん(4/18付)だったと思う*3。その他検索すると、やじうまWatch(4/20付)、R25(4/21付)、Pouch(5/1付)*4が引っかかる*5

しかし、千羽鶴1億円って、本当だろうか

けれどネットで話題になった際、同時にその話の信ぴょう性に対して、いくつか疑問が呈されていた。
たとえば、初期に「焼却処分費1億円」をとりあげたブログである「おち研」さんには、以下のようなブックマークコメントがついていた。

いや、たった10トンの廃棄物に一億かけるってどんだけ無能だよ - takamasa9294 のコメント / はてなブックマーク

takamasa9294さんのブコメで我に返った。機密文書用の溶解処理をしても10tなら10万円は超えると思うけど50万円はかからないよね?入口ではなく出口の処理方法の問題じゃないの。 - SndOp のコメント / はてなブックマーク

おち研の筆者も翌日には「本当に1億円なのか」という項を追記して検証を試みており、検証の結果として、記事は取り下げられないものの「続報が判れば追記します」というペンディングの状態となっている。
同趣旨のネットニュースを取り上げた2chにおいても「一億もかかるわけねーだろ」などの書き込みが見られていた。

少なくとも「焼却処分」に1億円はかけてなかったっぽいのでは

ここで整理しておきたいのだけど、広島市は2001年まで折り鶴の焼却をやっていたが、2002年以降~現在は、焼却ではなく保存している*6
ツイッターなどでも「(今現在)焼却に1億円かけて『いる』」かのような認識が見られるが、少なくとも「現在も焼却」については、明確に誤りであると言わなければならない。

では、「かつて焼却に1億円かけて『いた』」はどうか。

私は、過去の話であっても、焼却で1億円という数字には若干の疑問を呈さざるを得ないと考える。その理由は、上に引用したブックマークコメントと同じである。

しかし、さらなる資料はないか。実はそのヒントが、2000年の広島市議会議事録に記録されていた。
ツイッターでそれを検索・紹介された方がいる。



議会で論じられたのは、焼却のコストではなく、永久保存のための脱酸処理にかかる費用だが、議論している2人の前提に「今、焼却を行っている2000年現在は、1億円かけられていない」があると私は感じる。おそらく、「1億円かけた焼却処理」はなされていなかったと考えてよいのではないかと思う。ここでの1億円は「もし脱酸処理すれば」という仮定の金額だ。実際に掛けられた金額ではない。

お市議会議事録については、「SANEDOME jotdown」さんが、既にわかりやすく引用されていた。また、今現在の費用はいくらなのかについても、予算書をもとに示されている。5/2付。
torly.hatenablog.jp

本当に「広島市で年間1億円をかけて千羽鶴を処分する」という話が掲載されているのか

上記のとおり見てきたが、その上で、本当に書籍に、「広島市で年間1億円をかけて千羽鶴を処分する」という記載があるのだろうか。またそれは、正確にはどんな表現なんだろうか。

書店に走り、「ボランティアという病」を購入した。

以下、同書第4章「物資支援戦争」の「千羽鶴は本当に迷惑なのか」から引用する。

広島市では毎年、平和記念公園に届けられる10トン分の千羽鶴の処分費として1億円の予算を計上している。千羽鶴再生紙にする試みなど、市では人々の善意を無にしないための方法を今も模索しているようだ。(p.143)

このように記述されていた*7

広島市に聞いてみた

「ボランティアという病」の表現には、これまでのネットになかった新たな情報が含まれている。1つは、「焼却」という言葉がなく、単なる「処分」のみとなっている点、もう1つは、「1億円がかかる」というような結果ではなく、「1億円の予算を計上」という書き方となっている点である。また、このことを過去形ではなく、現在形の出来事としている点も見逃せない。

現在広島市が行っている「保存」が「処分」と言えるのかについて疑問は残るが、表現の問題かもしれない。また、「SANEDOME jotdown」さんがなされた、今現在の費用の分析が実は違っていて、予算書では素人目に読みづらい項目を合わせて、1億円の予算を現在計上している可能性もある。ネットの情報と細部が異なっていることから考えると、この記述は筆者が広島市に独自取材した結果のようにも思えてくる。

そこで恥ずかしい気もしたけれど、広島市に聞いてみることにした。そうしたところ、なんと1時間半で回答をいただいた*8。以下転載させていただく。

(私)
最近宝島社から出版された新書、「ボランティアという病」を読んでおりましたところ、「広島市では毎年、平和記念公園に届けられる10トン分の千羽鶴の処分費として1億円の予算を計上している」(143ページ)という記載があるのを見つけました。

禎子像などに捧げられる折り鶴について、保存や処分など、色々の議論があることは知っているのですが、現に処分費用として毎年1億円が掛けられているという話は、本当なのでしょうか。通常の焼却であればそこまでの費用はかからないと思うのですが、再生紙への取り組みやデータベースの運用などでかかっているのでしょうか。

広島市市民局国際平和推進部平和推進課)
広島市では、平成14年(2002年)度以降、平和記念公園原爆の子の像に捧げられた折り鶴について処分せず保管を行ってきており、
平成24年(2012年)度からは「折り鶴に託された思いを昇華させるための方策」に基づき折り鶴の配布を希望される個人や団体の方に対し、
保管している折り鶴の配布を行っています。

この取組に係る平成28年(2016年)度の予算額は、添付ファイルの資料の14ページ(印刷上は13ページ)のとおり250万4千円であり、
その内訳としては、折り鶴の配布を希望される個人や団体の方への折り鶴の運送料などに135万1千円、
原爆の子の像に捧げられた折り鶴を市の保管施設へ運搬する費用などに115万3千円となっています。
このため、折り鶴の処分費として1億円の予算を計上しているという事実はありません。
これらの内容については、平成28年度当初予算の資料として広島市のホームページ(http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1454295556096/index.html
に掲載しております。
(中略)

広島市では、原爆の子の像に国内外から年間約1,000万羽、重さにして10トン以上捧げられる折り鶴に世界中の人々から託された思いを大切にし、
平和への思いに応えるための取組をこれからも進めてまいりますので、引き続きご理解とご協力をくださいますようお願いいたします。

  • 「折り鶴の処分費として1億円の予算を計上しているという事実はありません。」

残念です。

「ネットに書かれていた」と「書籍に書かれていた」とでは、一般的に信ぴょう性が違ってくるということが、現実にはあると思う。私は、残念だ。*9

(2016年8月20日追記) 著者より訂正のブログあり、また、「広島市千羽鶴焼却処分費に1億円をかけていた」は新聞報道の誤読の可能性が高い

著者丸山氏が、今回の誤りの検証をブログに書いている。
「おりづる広島」に1億円の根拠をうかがいました。
その中で、4~5月の各記事(おち研さん、やじうまWATCHR25、Pouch)が折り鶴焼却1億円説の典拠としていたWEBを作成した、NPO法人に問い合わせた結果が掲載されているが、NPO法人から送付された当時の新聞記事のコピーには、脱酸処理をすれば1億円という記載はあるものの、焼却に1億円が掛かるとの記載はなかった。
丸山氏はこう結論付けている。

同じ記事の中に、確かに「年四回焼却」との記述はあります。しかし、残念ながら記事の中で説明されている、「一億円」というのは、年四回の償却処分の費用ではなく、百年間保存するための脱酸処理を、民間業者に委託した場合の費用のようです。
他に焼却処分費用に関する記述は見られないので、どうやら「おりづる広島」の船田理事長が、こういった記事を複数ご覧になるうちに、どこかで情報を混同されてしまったのではないか、というのが、現時点での私の考えです。

*1:https://twitter.com/cn2mrym/status/761631517630095361

*2:2016年8月18日追記 本書読者の感想ツイートだったが、削除された。大意としては、「千羽鶴には正負の両面があって、災害時の千羽鶴についてはその支援のフェーズや状況を考慮すべきであることが本書に書かれている」というものだったが、負の側面として、広島市千羽鶴の処分に1億円かけていることが本書に紹介されている旨が述べられていた。

*3:ツイッターを検索すると、togetterでまとめられたツイートの中で、4/17ごろに触れていた方がいたようである。

*4:Pouchがmixiに転載した記事から、2chのスレッドが立っていた。

*5:2016年8月19日追記 これらの記事は、もともと、折り鶴の再生紙活用を手掛けるNPOなどのホームページにその旨が記されていたのを取り上げたものであり(各記事を参照していただきたい)、この話の根拠が当時、薄弱だったというわけではないと思っている。私も当初、後述のブックマークコメントを見るまでは信じてしまっていた。

*6:本記事の後半部分を参照。

*7:なお、この記述の情報源は示されていない。

*8:とても感激しました。

*9:2016年8月18日追記 id:xnana さんからコメントいただいたとおり、著者の方から、重版で訂正いただけるとのアナウンスがあった。冒頭ツイッターを引用した部分で少し触れたけれど、折り鶴について、著者の考え方と私の考え方はそう変わらないと思えるだけに、余計に今回の件は残念だった。

5月10日のマクドナルドの話題・アレルギーの怖さを皆知っておくべきなんだろう

マクドナルドはアレルギーの表示にかなり力を入れている。最近色々あったものの、品質が売りのマクドナルドであるので、従業員に対しても本社の力の入れ方に相応の教育を行っているのだと思っていた。
アレルギー情報 一覧表 | メニュー情報 | McDonald's Japan
(なお、品質について | よくあるご質問 | McDonald's Japanには「アレルギー情報は適宜変更をしているため、店舗で資料をお渡しすることはしていません。…ホームページまたは携帯で事前にご確認されるか、店舗従業員にお問い合わせをいただけますようお願い致します。」とある。)

今日、以下の記事がはてなブックマークで話題に上っていた。
マクドナルドで食事をしたところ、蕁麻疹を発症したため、店員にアレルギーの原因となりうる物質として何が含まれているかを問い合わせたところ、その店員が回答するまでに30分を要し、その間に症状が重症化してしまった、という記事だ。note.mu
自分はいまのところ食物アレルギーは持っていないと思うが、こういうのはいつ突然わが身に降りかかるものかわからないから、人ごとではない。

食物アレルギーは、それまでなったことがない人でも突然発症するという(大人の食物アレルギー増加 突然発症、治療手探り :日本経済新聞)。いきなりでは対応に戸惑うのも当然だろう。ただ、蕁麻疹を発症し、それが食物アレルギーだと推測される時に、アレルゲンとなりうる原材料として何が考えられるかのリストを従業員に問い合わせることは、この時点では合理的な行動だったのではないかと思う。今後同じ症状が出たときにも同様の検証を行うことで、自分にとってのアレルゲンを特定できる。それによって今後の予防に繋がる。

ところが、この筆者の方が情報を求め、従業員が確かめるためにバックヤードに入ってから、異変が起き始めた。
1つは、確かめに行った従業員が、それ以降30分ほども戻らなかったこと。
そしてもう1つは、これこそが筆者の方にとって大変な思いであったと思うけれど、症状が重篤化していったことだ。
この症状の重篤化は、おそらく筆者の方にとっても、最初の従業員にアレルゲンリストを求めたときには思いもよらないことであったのではないかと思う。当初は「腕が真っ赤」という認識であり、また、咽喉という呼吸器に症状が出始めたのは、その後のことであったようだ。

アレルゲンの一覧はホームページを見れば書いてある。最初の従業員は一体何をしていたのだろうと思うけれど、「アレルギー情報は適宜変更をしている」との注意書きから考えると、最新の情報は何かということを改めて確認していたり、あるいは同じ商品名であっても、店舗によって、または入荷タイミングによって異なるということもあるのかもしれない。
想像によってマクドナルドを擁護しても仕方がないが、仮にそうであるとしても、筆者の方の症状は変わっており、緊急の対応を要する状態になりつつあった。対応者が正確性に拘るべきフェーズはもう過ぎていた。

このとき、筆者の方がどうすべきであったかを後知恵で考えると、病院への救急搬送を要請すべきであったのではないかと思う。

しかし、これは案外難しいことである。
既に自分がアレルゲンの調査を依頼しているのに、それを無視して・あるいは中止してもらって、救急搬送の要請なんて出来るだろうか。店舗に救急車が来れば、どうしてもちょっとした騒ぎになってしまう。自分が危機に身を置いていることをはっきりと自覚できれば可能だが、自分が置かれている状況なんて客観視できるものではない。自分の思っていることは大げさな考えかもしれない、という思いに打ち勝てる人間ばかりではない。

筆者の方は、最初の従業員の方が調査中である30分の間に、2人の従業員の方に自らの症状を訴え、水を希望し、また、最初の従業員が何をしているか確認するよう要請している。
しかし、水は得たものの、それ以上のことはしてもらうことが出来なかった。
理想を言えば、この時点で2人の従業員、特に具体的に「苦しい」との訴えを受けた従業員は何か対応を行うべきだったと考える。
ただ従業員は、「苦しい」という訴えを切迫感を持って受け取っていなかったのではないかとも思える。「苦しい」という訴えに切迫感を感じないならば、アレルゲンを確認している従業員に(このアレルゲンを確認していた従業員はチーフ格であったのだそうで、そのこともあって)任せればよいと考えてしまった、ということもありそうだ。

従業員個人の対応としては、そういうものだろうと思う。しかしマクドナルドという大きな会社の対応としてみたとき、それはどうなんだろうという思いがする。

ぼくは冒頭に、マクドナルドのアレルゲン情報開示の取り組みについて説明した。外食産業では、アレルゲン表示は義務付けられていない。国は、自主的な取り組みを要請しているレベルだ
http://www.caa.go.jp/foods/pdf/syokuhin1198.pdf。そうした中での、この完璧とすら思えるアレルゲン表示への取り組みである。これは、マクドナルドが時代を重ねる中で勝ち得てきた信頼を支える一片であると思う。ついぼくは、このような表示に取り組んでいるマクドナルドであれば、お客様が不意に体調を崩した、とくに、予期せぬアレルギーによって体調を崩した場合に、どのような対応が適切であるのかというマニュアルくらいはあって、それに沿った対応を従業員に求めることができるのではないかと思ってしまう。

しかし実際はそうではなかった。

ただ正直なところ、これについてマクドナルドがお詫びをしなければならない立場にあるのかということについて微妙に思う。上の仮定の通り、従業員が切迫感を感じることが最後までできなかったとすれば、そもそも適切な対応を行うきっかけ自体なかったということもありうる。(筆者の方の記事には、当初、「治療費を払ってもらうことについて店舗が同意した」という趣旨が書かれていた。その後、「記載されたもの以外の物が混入していてそれが原因だった場合はマクドナルドの責任」であり、その場合は治療費の負担を請求するという意味であったとして、その部分を削除している。しかし、そもそも元々食物アレルギーがなく、かつ、アレルゲン情報を確認せずに食事された方に対して、アレルゲン情報に載っていない原材料が混入していたからといって、治療費を負担すべき理由があるのか多少の疑問を覚える。金銭の請求をしている方に対して、お詫びについて慎重に判断せざるを得ないのはわからないではない。《だが、賠償問題とは切り離して、対応についてお詫びをおこなう方法もある。それくらいは、きっとマクドナルドでも検討したのだろうけれど…》)。

それとは別に、やはり思うのは突然やってくるアレルギーの怖さだ。そして、医療の救いを求めることに躊躇すべきではないということだ。筆者の方が無事であったのは本当に幸いであって、さらなるボタンの掛け違いがあった時に何が起こったのか恐ろしい。自らについてだけではなくて、周りの人にもし似たことが起きていれば、やはり119番を真っ先に考えるよう心がけたいと思う(だからこそ、「軽症であれば救急車の費用の弁償を求めることを考えるべき」という、最近の政治家の発言には、異を唱えたいと思う)。

筆者の方が、アレルギーから早期に、出来ることであれば回復されることを祈ります。

「八木蛇落地悪谷」資料集というかメモ

これは、「八木蛇落地悪谷」の報道に関連したブログを書くにあたって、集めた記事や資料等をメモ的にまとめたものです。
以前のエントリに自分の考えを書いており、それが本編にあたるので、基本的にはそちらをご覧いただければ幸いです。
以前のエントリ2つ

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地名から災害を読む難しさ(続・八木蛇落地悪谷)

前回の記事について、twitterで紹介いただく方がおられたおかげで数日でYahooやgoogleの検索順位が上がるようになり、その後モバイル版Yahoo!で取り上げられ、さらに数日してYahoo!ニュースの関連記事としてリンクが貼られ、1万を越えるアクセスをいただくことになりました。
近いうちに新たな記事を作成するつもりでしたが、結果的にこんなに遅くなり申し訳ありません。




「蛇落地悪谷」の「悪谷」について

前回の記事では、「蛇落地」の地名について書いたが、フジテレビ「とくダネ!」や産経新聞「産経抄」が報じる「悪谷(あしだに)」が「芦谷(あしや)」に改名された話については、当時調べたネット等で見当たることができず、あまり深く触れることができなかった。

そうしたところある方が、ツイッターで前回の記事を紹介いただきつつ、以下のような考察をなさっておられた。

「足谷古墳群」……ふりがなまでふられている名称は確かに「あしたに」であり、読みだけで言えば「悪谷」「芦谷」という漢字をあてることもできそうだ。

この足谷古墳群は、どういう経緯でこのような名前になったのだろう。古墳を指す名称として古くから地元に伝わってきたのか、それとも、この場所の地名なのか。

想いでの佐東町」という書籍(戦前戦後の佐東地区の写真集である)の冒頭に、昭和40年代の「旧佐東町字名図」というものが掲載されていた。関係する部分のみトリミングしたものを載せる。

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(佐東地区まちづくり協議会「想いでの佐東町」1996.8より。赤線は筆者にて付記。なお、トリミングのため空白の区画が生じているが、図の左下は一級河川太田川であり、右上は「宇津」という地名となっている)

昭和40年代には「足谷」という地名があったのだ。 「足谷」地区にあった古墳が「足谷古墳群」と呼ばれるのは、自然な成り行きだろう*1*2

「蛇落地」地名伝承、「上楽地」の場所

先の方が、今回の災害以前に「蛇落地」に触れていたネット記事を発見して呟かれていた。


大蛇が落ちた場所を蛇落地というそうです。
リンク先は小学生が書いた文章だが、今回テレビで放送された方とは異なる方が「蛇落地」の名前を語っていることがわかる。しかしここでも、大蛇退治伝説とセットであり、今回のような土石流と結び付けられることはなかったといえる*3

さて、昭和40年代の地図では「上楽地」と「足谷」は別の場所として書かれていた。しかし、上楽地が指す範囲は、前回の地図に引用した地形図を見ても、もっと広かったように思われる。おそらく、「上楽地」というのは、地区の中心地を指す地名でもあり、地区全体を指す地名でもあったのではないかと思う。

そもそも、地名が指す範囲は時代によってかわりうるという指摘もあった。



また現「上楽地」の地域(おそらく昭和40年代の地図の地域だろうか?)についてはこのような実態もあるらしい。

そうだとすれば、むしろ上楽地と呼ばれる土地は、安全な場所であった可能性がある。報道から得るイメージからは真逆である。いかに地名からの類推が難しいかと思える。

八木地区における災害史

佐東町史を紐解いても、災害としての記載は殆ど水害についてばかりである。
大体こういう地域史の本は、第1章が地質や地形の解説から始まることが多い。この本もそうであり、その中では土石流が繰り返されたことが書かれている。しかしそれ以降の歴史のセクションでは、私の見落としでなければ、土石流やがけ崩れといった治山関係に類することの記述がない。この地域は崩れれば広い範囲が被害に遭う地形をしている*4にもかかわらず、記述がないのは不思議なことといえる。また、昭和33年3月*5佐東町が発行した「新市町村建設計画書」には、「治山治水」の項目があっても、その内容は治水のことばかりで、治山には触れられない。このことからいえば、相当長い間、この地区において土石流の発生はなかったのであろうと思える*6

佐東・八木地区において、洪水がかなり大きな支障であり続けたことは、近年については、佐東町史の冒頭、「監修のことば」において「先々年、佐東地区は二度にわたり大水害を蒙ったことによって旧家古邸に保存されていた古文書類が大量に流出」とあることから、昔については、江戸時代の村高の解説のページにおいて「度々ふれたように佐東町の場合は洪水がやたらとあり川成り*7になった土地は多い。しかし、洪水によってそれらの史料は失われ、本当の姿を知ることはできず、村々のかつぎ高*8の状態もはっきりつかまえることができない」(P201-202)とあることなどから想像できる。

この街において洪水に重点が置かれ続け、頻度の低いであろう土砂災害に注意が向けられなかったのは、ある程度の時期までは、理由のあることではなかったかと思う。

地名と災害

先ほど書いたように、この地区では洪水が度たび起こっている。それがために地名や土砂災害に関する過去の記録が消失していたことも十分に考えられる。「蛇落地」や「悪谷」について文献がないことが、すなわちそのような地名が存在しなかった説明にはならない*9。また、その語源が土砂災害をきっかけにするということも、否定はできない。(9月9日、「八木蛇落地悪谷」について説明した文献があるらしいことを知った。詳細→*10 ) (9月11日、「八木蛇落地悪谷」について説明しているらしいと私が考えた『日本山岳ルーツ大辞典』の阿武山の項目には、実際にはその記載がないことを確認した。詳細→*11

ただ、これまで見てきたとおり、「上楽地」という名称が使われたのは、ネットで調べられるデータからしても、少なくとも戦前よりも前であることは明らかだし、さらに調べれば江戸時代からあることは明らかと考える。報道機関もこの説明をした地元の方にこの点を尋ねれば、少なくとも使用時期の説明があっただろうと思う。それなのに現代における土地取引のイメージと絡めるような取り上げ方をすることは、問題がないとはいえないのではないかと感じる。

今回、一連の記事を書いて、昔の地名をさぐることはとにかく難しいことだということを実感した。土地にもよるだろうが、図書館で少し調べるくらいではよくわからないこともある。かつ、それを解釈することもまた難しい。命名の感覚は今と昔では相当違うことも考えられる。古い地名が仮におどろおどろしいものであったとしても、今の言語感覚でもって、その土地に住む人を批判する材料として使うべきでないと考える(行政が治山対策のきっかけとして利用するということはありえるかもしれない。それはしかし、実際の土地調査の補助として使うべきものだと思う)。

「THE PAGE 広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン」について

前回の記事のアクセス数が伸びたのは、「THE PAGE 広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン」というニュースをYahooが紹介するにあたって、関連記事としてリンクを貼っていただいたことが理由だった。浄楽寺や広島市郷土資料館安佐南区役所への問い合わせに基づいて書かれた記事はとても参考になるし、また、前回の記事を多くの人に読んでいただいたきっかけであるのに申し訳ないけれど、1つ指摘しておきたい。

最大の避難所となっている梅林小学校は「ばいりん」と呼ばれていますが、「梅」は土砂崩れなどで埋まった「埋め」が語源であることが多いとか。…やはり地名は丹念に読み取ることで「警告」を浮かび上がらせることができそうです。

「梅林」は、江戸時代の安芸(広島)藩が編纂した地誌である「芸藩通志」にも記載のある古い梅林(植物の梅の林。梅の名産地であった)に由来するもので、「埋める」に関連するものではない。今は梅林はないらしいのが残念。
この記事からしても、やはり、地名から過去の災害を云々することは、かなり慎重に行うべきであるように思う。

雑感

前回の記事を書いた後、安佐北区へボランティアに伺った。通りがかった安佐南区緑井・八木の、よくテレビで報道されるようになってしまった風景を見ながら、今回の災害が広範囲かつ、まだらに発生した事を実感した。何キロも離れた場所が崩れる。崩れた場所だけが被害に遭う。そのすべてで、災害を示唆する地名があったわけではないだろう。そんなことは当たり前だが、「蛇落地悪谷」ばかりがあまりに強調されすぎるのを見ると、他の地域でも災害が発生していることを忘れられてはいないかと、気になる(私が「蛇落地」に関する記事を書いたために、自分にとって目につきやすくなっただけかもしれないが)。





この記事は以下の記事の続編にあたります。併せて読んでいただければと思います。

広島豪雨災害:「八木蛇落地」の地名が変更されたのは江戸時代以前では - 顧歩日記

*1:前回記事執筆時、この広島文化財団のページの記載にどうして気付かなかったかと思うと残念だが、いったん「あしや」になった地名が「あしたに」に戻るということに思いが及ばなかったし、この点、報道では説明がなかったことに疑問が残る

*2:なおこの図ではわかりづらいが、小原までが「八木」の範囲であり、小原の向こうの西側が「緑井」になるようだ

*3:大蛇退治伝説については、こういうものもあるそうだ。

…えーと。

*4:今回の災害を受け土木学会が行う調査の速報(8/21)は、広島県の土砂災害危険指定を引きながら「実際にはこの地域の(線路周辺の狭い範囲を除く)ほぼ全域が危険地域に指定されているともいえ,危険地域を避けるとどこに住めばいいのか」としている

*5:佐東町における人口の急激な増加は昭和35年頃からとのこと(GYS都市計画推進懇談会「GYS地域開発基本計画概要 1968」)なので、まさにその直前といえる

*6:土木学会の現地調査では、今回の土石流によってえぐられた地面から、過去の土石流の痕跡が多数みられるようである(広島豪雨災害8.22-23 | 土木学会中国支部「元々あった地山にも土石流堆積物の痕跡が見られる」など。)

*7:洪水などによって耕作不能になった耕作地

*8:耕作されない土地に賦課された年貢

*9:しかし、前回記事のような想像もできるとは思う。

*10:スポーツ報知の辛坊治郎氏のコラム「【辛坊持論】行政の責任は重い「蛇落地悪谷」での惨劇」に、地名研究家であった池田末則氏(元奈良大講師)のご令嬢からの手紙として、「『日本山岳ルーツ大辞典』の広島県の阿武山という項目に、土砂災害を起こした八木という地名のルーツが載っております。雨が多い場所で、ひとたび大雨が来ると大蛇に見立てた土砂崩れが起こった地域であったことも書いてあります」と紹介し、さらに手紙からの引用でない地の文で「ちなみに、この地域はかつて「八木蛇落地悪谷(やぎじゃらくじあしだに)」と呼ばれていたそうです。」との記載あり。大蛇伝説を土砂崩れの見立てとする説明は、フジテレビ報道以外ではネット上で初めて出てきたものだと思われる。後日辞典を確認したい。(この注釈9月9日追加)

*11:辛坊氏が紹介する手紙にある「日本山岳ルーツ大辞典」を確認したところ、「阿武山」の項目はあったが、この項目に「八木蛇落地悪谷」の地名の記載はなかった。ご令嬢が「大辞典」以外の池田氏の研究資料を元に手紙に書かれたのであれば格別、そうでなければ、これは辛坊氏が追加した情報であって、そのソースはやはりフジテレビ報道であった可能性がある。また、この記事中で引用された手紙には「土砂崩れが起こった地域であったことも書いてあります」とあるとのことだったが、「阿武山」の項目には土砂崩れのことは書かれておらず、阿武山にちなむ民話として大蛇退治伝説を紹介する中で「(大蛇に)勝雄が切りかかると天地鳴動して雨を呼ぶ」とあるのが、唯一天候に触れられた部分であった。これはいったいどういうことなのか。辛坊氏の記事を受けて「大辞典」を確認した時、辛坊氏記事への私の理解と、実際の大辞典の書き方があまりに違った為、正直言って愕然とした。(この注釈9月11日追加)

広島豪雨災害:「八木蛇落地悪谷」の地名変更は江戸時代以前では

広島県広島市安佐南区および安佐北区で発生した豪雨災害は、予想を大きく超える事態だった。安佐南区安佐北区も、わたしには思い出がある場所で、まして、被害の大きかったいずれの地区も、商業地や住宅地としてよく耳にする地名であったから、つらい以前に、未だに信じられないという気持ちの方が大きい。

ところで、被害の大きかった地区のひとつ、八木地区の昔の地名が「八木蛇落地悪谷」であったとフジテレビジョン「とくダネ!」が伝えたことを、J-CASTテレビウォッチというサイトが記事にしている。
「蛇落地悪谷」と呼ばれていた広島・土石流被災地―蛇が降るような大雨たびたび : J-CASTテレビウォッチ

同じテレビ報道を元にして、産経新聞も産経抄で触れている。
【産経抄】地名は警告する 8月27日 - MSN産経ニュース

少し気になるのが、これら2つの記事による説明だと、今の八木地区が元々「八木蛇落地悪谷」という地名であり、そこが「八木上楽地芦谷」と改名され、そのうち「上楽地芦谷」が省略されて「八木」となったと受け取る人がいないだろうかということ。

八木という地名は、昔から*1このあたり一帯を差す村名で、「蛇落地」という地名は、そのさらに細かな場所を指す字(あざ)だろうと思う。「悪谷」は、蛇落地の中にある土地を指すピンポイントの名称ではないだろうか。悪谷以下は完全な推測だけど。
ともかく、「八木」全体が以前「八木蛇落地悪谷」という名称だったと受け取った方がおられたとすれば、それは誤りということになる。*2

この蛇落地という字、イメージが悪いので、宅地開発における不動産売買のために変えられたと考える人が多い(J-CASTにより伝えられるとくダネ!のスタジオの様子も、そのようなイメージに基づいて語られているように思える)。

だが、ネットで昔の地図と現在の地図を比較できる便利なサービスがあり、これによって大正14年測図、昭和3年発行の国土地理院地図を見ることが出来る。

すでにこの時点で「上楽地」という地名が見える。蛇落地という地名は見えない。
安佐南区がベッドタウンとして開発されるのは高度経済成長期以降だから、少なくとも想像するような状況で地名が変わったわけではないだろう。

さて、今日、この本を調べてみた。時間が全然なかったので、ざっと読んだ程度だけど。

佐東町史 (1980年)

佐東町史 (1980年)

佐東町とは、周辺の八木村、緑井村、川内村が合併して昭和30年に誕生した町だ。わずか18年後、昭和48年には広島市に吸収されているが、この佐東町史は、広島市が吸収後に発行した町史だ。
この町史には、八木周辺地域においてかつて土石流があったことが記載されている。
それとは別に、おりおりに触れて、過去の記録に見える八木の様子が語られている。
その中、宝暦12年の八木村における土地調査結果が引用されていた。
この土地調査には、村・字(あざ)別に、どのような名前の地主がおり、どの程度の土地を持っているかが示されているが、その中にこのような字があった。

上楽寺。

「上楽地」「蛇落地」という地名を見つけることは出来なかったから、「蛇落地」「上楽地」という地名がこのように記された可能性は高いのではないかと思う。
宝暦12年は、1762年。もちろん江戸時代だ。宝暦元年には徳川吉宗大岡越前が亡くなっているから、まあそのころの時代だ。ベッドタウンの開発なんて(この地域では)思いもよらなかった時代だ。
「蛇落地」の地名が変えられたのは、少なくとも住宅地のために土地を買わせる目的ではなかったといえるだろう。

「地」が「寺」に変えられた、「上楽寺」の地名に気付くことがある。以前、このようなツイートがTLを流れていた。

確かに、とくダネ!において話をされていた住職の方がおられる「浄楽寺」は、「上楽寺」と音読みが一緒なのだ。浄楽寺の開基は元和5年(1619年)。寺の名前が地名を作ることも、逆に地名が寺の名前を作ることもある。これだけの材料ではなんともいえないが、地名に深く関わっている寺名であることは間違いない。

そして、「蛇落地」という地名にも気になることがある。
広島市文化財団 文化科学部文化財課が作成した以下のページには、附近にある観音堂が「蛇落地観世音菩薩」と呼ばれる、としている。これが私がネットを検索した中では、今年8月20日以前で唯一「蛇落地」という名を紹介しているページである(むろん検索に漏れはあるだろう)。
http://www.mogurin.or.jp/maibun/kojikodo/unseki/unseki2-6.htm

その観音堂の紹介の近くに、「18才、十五人力の香川勝雄が阿武山にいた大蛇を退治する話。」という「蛇王池の碑」の紹介がある。J-CASTにおいて、住職の方が話されていた「竜がいて、その首をはねたところ」とはこの香川勝雄のものだ。香川勝雄、実はwikipediaにも記事があるほどの人物だ。
香川勝雄 - Wikipedia

この大蛇(龍)退治は、「陰徳太平記」という、元禄8年(1695年)には成立していたとされる書物に記録されている。

近代デジタルライブラリー - 陰徳太平記. 合本1(巻1-18)
「香川勝雄大蛇を斬る事」

記録によれば天文元年(1532年)の出来事。

この故事が土石流を比喩的に伝えていたとしても、先の佐東町史によれば、これは地区の昔ばなしとして語られていたようだ。地区の人々にとってこの話がたいそうお気に入りだったことは、先の、「蛇王池の碑」の紹介文に「蛇王池の位置そのものがあいまいでわかっていないため便宜的に現在位置に建てられた」とあることから想像できる。
だとすると、これまでの話とは逆に、「上楽地(あるいは上楽寺)」が、故事に関係があるのだからと想像(創造)され、「蛇落地」という地名が作り出されたという可能性もあるのではとさえ思えてしまう。

これは私のおかしな思い込みだ。しかし、仮に先人が警告のため「蛇落地」という地名を名付けていたとしても、江戸時代の人々はすでにそれを香川勝雄の故事に結び付け、さらに「上楽地」という地名に変えてしまったのだ。「地名は警告する」という訴えの趣旨はよくわかるし、意義深いことであると思う(そしてそういう考察は私は大好きだ)けれど、我々から見ればいにしえの人から見てすら理解できなかった警告を、今の時代に生きる我々が(一般の人が)どうして理解することができるだろう。
少なくとも、それを無視したといって、批判されるいわれはない。ネットにはそんな批判が間々見られる。

ましてや、「蛇落地」なんて地名、地域の歴史本を10分ちょっと読んでも見つけられない程度の地名なんだよ*3*4。ようやく見つけたとしても「昔蛇退治があってね」と説明されて、そこからさらに土砂災害の可能性を、疑うことが出来るだろうか。


※続きの記事を書きました。よろしければ、あわせてお読みください。

地名から災害を読む難しさ(続・八木蛇落地悪谷) - 顧歩日記

*1:931年~938年の承平年間に編まれたとされる「和名類聚抄」に「養我」との記載があり( 国立国会図書館デジタルコレクション - 和名類聚抄 20巻. [4] )、これを「養義」の誤りとして八木のこととする説がある(この注釈9月1日追記)。

*2:もっとも、初めに報道した「とくダネ!」では、「八木三丁目」の地名が「八木蛇落地悪谷」だったと説明していたそうだ。

*3:佐東町史を読めた時間は本当に短く、ろくにメモを取る余裕もなかったので、記憶に頼って書いている部分もある。「宝暦12年」「上楽寺」は間違いないが、その他の部分でニュアンス等が異なっていたらごめんなさい。

*4:その後改めて佐東町史を読んだが、「蛇落地」の表現は、「蛇落地観世音菩薩堂」(上の広島市文化財団のページで言及されているものと同じ)の紹介で使用されていたものの、他には記載がなかった。ここでの「蛇落地」は観世音菩薩堂の名称として挙げられており、地名としての記載ではないように思われる。なお、蛇落地観世音菩薩堂は、先に触れた「上楽寺」の記載が見つかる宝暦12年(1762年)より後の、弘化4年(1847年)に現在地(上楽地)に移設されたものとされる。弘化4年まで「上楽地(寺)」と「蛇落地」の2種類の表記が併存していたのか、観世音菩薩堂移設にあたって蛇落地表記を行ったのか、そのいずれなのかはこれだけではなんとも言えないように思う(この注釈9月1日追記)。

関東で有名な「カステラ1番、電話は2番」の元祖は、大阪のすき焼屋さんだった


文明堂CM『仔グマのカンカン・ダンス』1994年12月リメイク版 - YouTube

文明堂のCMでおなじみの、「カステラ1番 電話は2番 3時のおやつは文明堂」の台詞。
文明堂は、設立以来の経緯から各地で別会社として運営されていて、CMもそれぞれの地域ごとで作られていたために、「3時のおやつは…」の部分までがおなじみなのは、関東圏に限られるそうだ。
文明堂 - Wikipedia

国立国会図書館関西館さんが紹介する、アドミュージアム東京広告図書館さんが調査した結果によれば、このコピーを書いたのは、文明堂銀座店の先々代の社長、宮崎甚左右衛門氏という。

文明堂のCMソングである“カステラ1番、電話は2番・・・”の歌詞を書いたコピーライターは誰か。 | レファレンス協同データベース

当初は「カステラ1番、電話は91(ここいち)番」。今ならカレー屋のようなキャッチフレーズで、もし、今も文明堂がこのキャッチフレーズならば、あのカレー屋さんの店名は生まれなかっただろう。

これが「電話は2番」という、すっきりしたキャッチフレーズになったのは「「肉は1番、電話は2番」と宣伝して、その味と共に評判になっている大阪のすき焼きの宣伝文句にヒントを得」たから。

この「大阪のすき焼屋」さん。具体的にどこであったか。文明堂銀座店のWEBページからはわからないが、実はその店名までが判る本が手元にあったので、紹介しておきたいと思う。

カフェー考現学 (大正・昭和の風俗批評と社会探訪―村嶋帰之著作選集)

カフェー考現学 (大正・昭和の風俗批評と社会探訪―村嶋帰之著作選集)

戦前に活躍した新聞記者、村島帰之(むらしまよりゆき)の著作の中から、大正・昭和初期の文化風俗等を記したものを中心にまとめられたこのシリーズ。なかでもこの巻は、大阪において勃興した、今でいうキャバレーっぽい「カフエー」(「大阪式カフエー」)について記されたものを収録している。
大学で法学をやったことがある人なら「カフェー丸玉事件」というのを聞いたことがあるかもしれない。カフェー丸玉もこの大阪式カフェーのひとつだった。
カフエーの中心地は道頓堀界隈であった(カフェー丸玉も道頓堀界隈にあった)ので、当時の道頓堀界隈の様子がカフエーにとどまらずいきいきと描かれていて、読んでいてとても楽しい。

表題作「カフエー考現学」は、元は昭和6年12月に日日書房というところから出された本なのだけれど、これに、これはと言えることが書かれているのである。
道頓堀の飲食店を紹介するくだりだ。

―すき肉屋―
丸万、いろは、本みやけ、三島亭等でこれも皆純和風構へである。その中で最も宣伝し、又凝った構へは本みやけである。ここの宣伝は「肉は一番電話は二番」といふスローガンを使ふので有名だ。或る悪戯者がその後へ「味は三番」などゝ追句を附加した事がある。(P72)

「ここの宣伝は『肉は一番電話は二番』」!

大阪のなかで同じキャッチフレーズを流用しようとする同業者はさすがに考えられないので、文明堂のキャッチフレーズは、この「本みやけ」から拝借したものと考えるのが妥当だろうと思う。
本みやけなくして、文明堂のあのCMは生まれなかったのだ。

さて、そんな本みやけ。今はどうなっているのだろう。
ネットで検索しても、道頓堀界隈でそういうお店は見つけられない。
しかし実は梅田のほう、阪急三番街に、これと同じ店名のすき焼・ステーキ屋さんがある。

お探しの店舗のページはありませんでした

もう2年も前のことになってしまったが、2012年にこのお店に行ってみた。
阪急三番街の中にあるお店である。そんなに広くもないし(カウンターだけじゃなかったか)、「凝った構え」というほどのものはない。ただ、普通には読めようもない「本みやけ」の看板が、なんとなく歴史を感じさせる。

お店の人に話しかけてみる。
「このお店は、ここ梅田だけなんですか」
「以前は他にも店があったんですけど、今はここだけなんです」
昔、難波の方にお店がなかったかも聞いてみたが、その店員さんは知らないようだった。

しかし、むかしはもっと店があったということであれば、徐々にいろんな店舗ができ、徐々に古い店舗がなくなる形で、最終的に梅田までたどり着いたということがありえないわけではないだろうと思う。
今の本みやけは、電話番号も2番ではないし、当然「肉は1番電話は2番」なんてキャッチフレーズを使ってもいない。その事実を知る人ももうほとんどいないだろう。
けれど、戦前、大大阪として大阪が大いに輝いていた時代の味、かもしれない「牛とじ丼」は、都心部としてはまあまあのお値段で、大変満足のいく味だった。

東京の人の心には強く刻み付けられているだろう「カステラ1番、電話は2番」。この元祖が大阪にあったことや、そのお店がまだ現存する(と思われる)ことが知られていないのは、ちょっともったいないことだと思う。