童謡「赤とんぼ」の「ねえや」は本当に15でお嫁に行ったのか

赤とんぼの3番の歌詞に、「15でねえやは嫁に行き」とある。
昔は若くしてお嫁に行ったんだなあとずっと思ってきたけれど、先日ツイッターで「大正時代、最も早婚だった青森でも、15歳でお嫁に行く女性は全体の5%だった。赤とんぼの歌詞は現実とは違う」という趣旨の呟きが目に入って驚いた。

けど、本当に赤とんぼの歌詞は現実と異なっていたんだろうか。

赤とんぼは作詞者の実体験が元になっている

Wikipediaで「赤とんぼ(童謡)」を検索すると、こうある。

三木が1921年(大正10年)に、故郷である兵庫県揖保郡龍野町(現在のたつの市)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれ…

作詞者、三木露風は1889年(明治22年)に生まれた人だ。そのような人の子供時代は、明治時代になるのだろう。となると大正時代の童謡であっても、明治時代の状況も考慮すべきだろう。しかし郷愁は微妙な表現だ。実際に体験したことなのか、そうではないのか分からない。

さらに検索すると、次の随筆を見つけることができた。
赤とんぼのこと 三木露風

私が作った童謡に「赤とんぼ」と題する作がある。(略)これは、私の小さい時のおもいでである。

「小さい時のおもいで」とある。単に「郷愁」という以上の意味合いがあるように思う。

本当に結婚したのか、結婚したとして15歳だったかははっきりしない

「おもいで」による歌詞だということがわかったが、肝心の「15で…嫁に行き」は、どの程度記憶が反映されているのだろうか。
先の随筆をさらにひいてみる。

家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の廣場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た。そのことをおぼえている。
(略)大分大きくなったので、子守娘は、里へ歸った。ちらと聞いたのは、嫁に行ったということである。

まず「ねえや」が実の姉のことではなかったことに(いまさら)驚く。「家で頼んだ子守娘」だったという。そして三木は、この子守娘について「ちらと聞いた」としか書いていない。「大分大きくなった」とは言っても子供だったろうから、子守娘の年齢や本当にお嫁にいったのかどうかなどは、あまりよく分からなかったとしても無理はないように思える。
しかしそうすると、彼女は15歳だったのか、そもそもお嫁に行ったのかさえ、はっきりしないことになってしまう。
詩として見たとき、15で嫁に行き、とすると、ほかの年齢よりも何か切なさが募るような気がする(ぼくは)。思い出を元に作詞するときに、詩としての良さを優先させて15としたのはありえる話だ。

ねえやの頃の結婚事情

だからといって、15歳で嫁に行った可能性がないというわけではないだろう。
先にあげたツイートは大正時代の統計をあげていたが、作詞者の「おもいで」が元だとすれば、詩が発表された年を基準とすべきでないように思う。
では、「おもいで」はいつの頃の話だったか。

若き日の三木露風 (近代文学研究叢刊)

若き日の三木露風 (近代文学研究叢刊)


の4ページから5ページに、

露風がまだ幼稚園に通っていた二十八年の早春、かた(引用者注:母)は勉(引用者注:明治25年5月に生れた弟)をつれて鳥取の堀家(引用者注:かたの実家)に帰った。露風は祖父母のもとに引きとられ(中略)た。(中略)かたは間もなく東京小石川表町の久松学舎々監となっている堀正(引用者注:かたの養父)を頼って勉をつれて上京した。そして東大病院付属看護婦養成所の講習生となった。勉は三木家に引き取られ、露風と同じく祖父母のもとで養育されることになった。母に去られ悲しみに沈んでいる露風を宍粟郡山崎出身(?)の姐やが慰めて、よく面倒をみてくれた。(中略)露風作「赤蜻蛉」の第三節に詠まれている姐やはこの人であろうという。

と書かれている。この、「この人であろう」は、有本芳水が昭和41年5月28日にこの本の筆者に語ったところによるようだ(引用文のハテナはママ)。
この姐やがいつまでいたのかは見つけられなかった。明治22年生まれの作詞者は当時5~6歳であったが、明治25年5月に生れたばかりの弟もいたとのことだから、実は、姐やは主としては弟のためにいたのかもしれない。
歌の歌詞と上の随筆によれば、作詞者はこの姐やに背負われたことがあるとのことだが、弟についてもそのくらいの年まではいたとすれば、3年くらいは奉公したのかもしれない(作詞者本人の上の随筆は「大分大きくなったので」と自分の成長を理由にしているが、それを無視すると)。
仮にそうだとすれば、奉公を終えたのは明治31年くらいか。

明治32年の統計によれば、女性の結婚年齢が19歳以下であったものが、
総数297,372件に対し100,854件(33.9%)だった。
参考までに、「赤とんぼ」の詩が発表された大正10年は、
総数519,217件に対し135,505件(26.1%)
ずいぶん違うとはいえないが、15歳の結婚も冒頭のツイートよりもう少し多かったのではないだろうか。
19歳以下の年齢別の具体的な資料がきっとあるはずなので、機会を見てもう少し調べたいと思う。

ちなみに結婚における年齢の下限が定められたのは、明治31年7月から施行された民法(この部分は戦後改正されたので「明治民法」という)によるようだ。

765条 男ハ満十七年女ハ満十五年ニ至ラサレハ婚姻ヲ為スコトヲ得ス

現行民法では男18歳女16歳。

明治民法の施行以前は、どうやら一般には年齢制限はなかったようだ。明治の結婚 明治の離婚―家庭内ジェンダーの原点 (角川選書)によると、明治15年ごろ、結婚・離婚を規制する「結婚条例」が制定されるという噂が各新聞で取り沙汰され、実際にいくつかの草案なるものが掲載されたそうだ。「明治の結婚~」の筆者はいう。(以下、「明治の結婚~」からの引用)

第一は、「男二十歳、女十八歳(満年齢)を婚姻適齢」とすることである。とくに女子が当時の標準(数えで十七―十八歳)より高くおかれているのが注目されるが、十三―十四歳からあった早婚の弊害を防止するにはよいとする賛意が多かった(p77)

この結婚条例案は、結婚にあたって政府に対して預け金を強制し、事前に役所と警察の掲示場に当事者2人の氏名を掲げて異議を確認するという点が特に話題になったようで、

今度本邦でも結婚条例が発布になると云ふ噂のあるゆゑ、予め用心する訳かと知らねど、岩船郡村上辺では、早婚が大流行で、男は十五歳、女は十三歳位にて婚姻するので、嫁りて手球を撞き、娶りて独楽を弄ぶもの到る処に多くあるによし(p78、新潟新聞明治15年6月28日から)

神戸市内では、(中略)その前に済ませなければと慌てる人が多い。まだ十歳にならない子に構わず結婚させる。(pp78-79、朝野新聞明治17年3月22日から)

と、結局制定されなかった(それどころか、正式に審議された形跡も見つからないという)結婚条例を通してではあり、特殊な事例ではあろうけど、年齢制限がなく、それが結婚として認められていたというのが分かる。

作詞者の母は15でお嫁に行った

作詞者の母、明治5年10月10日の生れだそうだ。結婚したのは、明治21年4月28日。とすると、まさにこのとき15歳(父は慶応2年1月10日生れで、結婚時には21歳だった)。
ねえやは分からないが、母親がお嫁にいったのは15なのだった。

* * *

「赤とんぼ」が世に出たとき、きっと「姐や」は存命であったことだろうと思う。何か書き残していたり、近所で話していたりしないだろうか。赤とんぼに関することは、これまでも色々な人が研究してきたようなので、きっと、新たな事実が出てくることは望み薄なのだろうな。