関東で有名な「カステラ1番、電話は2番」の元祖は、大阪のすき焼屋さんだった


文明堂CM『仔グマのカンカン・ダンス』1994年12月リメイク版 - YouTube

文明堂のCMでおなじみの、「カステラ1番 電話は2番 3時のおやつは文明堂」の台詞。
文明堂は、設立以来の経緯から各地で別会社として運営されていて、CMもそれぞれの地域ごとで作られていたために、「3時のおやつは…」の部分までがおなじみなのは、関東圏に限られるそうだ。
文明堂 - Wikipedia

国立国会図書館関西館さんが紹介する、アドミュージアム東京広告図書館さんが調査した結果によれば、このコピーを書いたのは、文明堂銀座店の先々代の社長、宮崎甚左右衛門氏という。

文明堂のCMソングである“カステラ1番、電話は2番・・・”の歌詞を書いたコピーライターは誰か。 | レファレンス協同データベース

当初は「カステラ1番、電話は91(ここいち)番」。今ならカレー屋のようなキャッチフレーズで、もし、今も文明堂がこのキャッチフレーズならば、あのカレー屋さんの店名は生まれなかっただろう。

これが「電話は2番」という、すっきりしたキャッチフレーズになったのは「「肉は1番、電話は2番」と宣伝して、その味と共に評判になっている大阪のすき焼きの宣伝文句にヒントを得」たから。

この「大阪のすき焼屋」さん。具体的にどこであったか。文明堂銀座店のWEBページからはわからないが、実はその店名までが判る本が手元にあったので、紹介しておきたいと思う。

カフェー考現学 (大正・昭和の風俗批評と社会探訪―村嶋帰之著作選集)

カフェー考現学 (大正・昭和の風俗批評と社会探訪―村嶋帰之著作選集)

戦前に活躍した新聞記者、村島帰之(むらしまよりゆき)の著作の中から、大正・昭和初期の文化風俗等を記したものを中心にまとめられたこのシリーズ。なかでもこの巻は、大阪において勃興した、今でいうキャバレーっぽい「カフエー」(「大阪式カフエー」)について記されたものを収録している。
大学で法学をやったことがある人なら「カフェー丸玉事件」というのを聞いたことがあるかもしれない。カフェー丸玉もこの大阪式カフェーのひとつだった。
カフエーの中心地は道頓堀界隈であった(カフェー丸玉も道頓堀界隈にあった)ので、当時の道頓堀界隈の様子がカフエーにとどまらずいきいきと描かれていて、読んでいてとても楽しい。

表題作「カフエー考現学」は、元は昭和6年12月に日日書房というところから出された本なのだけれど、これに、これはと言えることが書かれているのである。
道頓堀の飲食店を紹介するくだりだ。

―すき肉屋―
丸万、いろは、本みやけ、三島亭等でこれも皆純和風構へである。その中で最も宣伝し、又凝った構へは本みやけである。ここの宣伝は「肉は一番電話は二番」といふスローガンを使ふので有名だ。或る悪戯者がその後へ「味は三番」などゝ追句を附加した事がある。(P72)

「ここの宣伝は『肉は一番電話は二番』」!

大阪のなかで同じキャッチフレーズを流用しようとする同業者はさすがに考えられないので、文明堂のキャッチフレーズは、この「本みやけ」から拝借したものと考えるのが妥当だろうと思う。
本みやけなくして、文明堂のあのCMは生まれなかったのだ。

さて、そんな本みやけ。今はどうなっているのだろう。
ネットで検索しても、道頓堀界隈でそういうお店は見つけられない。
しかし実は梅田のほう、阪急三番街に、これと同じ店名のすき焼・ステーキ屋さんがある。

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もう2年も前のことになってしまったが、2012年にこのお店に行ってみた。
阪急三番街の中にあるお店である。そんなに広くもないし(カウンターだけじゃなかったか)、「凝った構え」というほどのものはない。ただ、普通には読めようもない「本みやけ」の看板が、なんとなく歴史を感じさせる。

お店の人に話しかけてみる。
「このお店は、ここ梅田だけなんですか」
「以前は他にも店があったんですけど、今はここだけなんです」
昔、難波の方にお店がなかったかも聞いてみたが、その店員さんは知らないようだった。

しかし、むかしはもっと店があったということであれば、徐々にいろんな店舗ができ、徐々に古い店舗がなくなる形で、最終的に梅田までたどり着いたということがありえないわけではないだろうと思う。
今の本みやけは、電話番号も2番ではないし、当然「肉は1番電話は2番」なんてキャッチフレーズを使ってもいない。その事実を知る人ももうほとんどいないだろう。
けれど、戦前、大大阪として大阪が大いに輝いていた時代の味、かもしれない「牛とじ丼」は、都心部としてはまあまあのお値段で、大変満足のいく味だった。

東京の人の心には強く刻み付けられているだろう「カステラ1番、電話は2番」。この元祖が大阪にあったことや、そのお店がまだ現存する(と思われる)ことが知られていないのは、ちょっともったいないことだと思う。