東京の被爆体験記を読む

このブログのひとつ前の記事に書いた「この世界の片隅に」が、こんどNHK総合テレビで放送されるらしい。
2019年8月3日 午後9時から。
av.watch.impress.co.jp

いまでもこの映画がかかっている映画館はあるけれど、テレビであれば気軽に見ることができるから、これでよりたくさんの人が見る機会が出来ると思うと、うれしさを感じる。

この映画は必ずしも原爆だけを扱った映画ではないから、そこばかり強調するのはよいことではないかもしれないが、ちょうど先日、こんな本を読んだ。

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「ふたたび被爆者をつくらないために 世田谷・被爆者の証言 第一集」(2003年)

実はこのあいだ東京に引っ越して、図書館の郷土書コーナーを見ていて見つけたものだ。
広島や長崎で被爆の後、世田谷に住まわれることになった方々の体験記。

私は広島に住んでいたから、広島の地名を言われれば大体のことはわかるけれど、広島に縁がない人にとっては、原爆体験記を読んでも少し離れた土地の出来事のように感じられやしないだろうかと思う。
だけど、地元や近所に住んでいる、住んでいた人がそのような体験をしたことを読めば、より身近なものとして感じられるということもあるのではないだろうか。
きっと各地の図書館に、探せばこういうような本が置かれているだろうと思う。

映画と関連してはっと思った手記があったので、引用したい。

…一瞬、開け放たれた座敷を通して、一番奥の小さな庭の一隅に、ススーッという摩擦音とともに物すごく強烈とうかなだいだい色の火柱が立ちました。
ハッと思って座敷にいた家内と顔を見合わせたと思う間もなく、真っ暗になって家がくずれ落ち、私は全身袋だたきにあったような感じで押しつぶされ、そのまま気を失ってしまいました。…
(P16 「家内は倒れた家の下敷きになり、火が隣家から迫ってきます」 伊藤喜一氏 手記当時世田谷区船橋在住、被爆当時は縮景園前の広島市上流川町(今の中区上幟町か))

この描写を読んで、映画のあるシーンを思い出した。強い光に包まれる光景は、多くの人が手記に残しているのだけれど、被爆の場所や状況によって、その状況が大きく違う。しかしこの手記の方の場合の風景は、わたしにとっては映画のおかげで映像でうかぶような気がする。アニメの力を思う。
伊藤氏はそのまま、その時顔を見合わせた奥様を崩れ落ち、火災に呑まれる家から見つけ出すことができなかったという。

映画の主な舞台である呉の方の手記もあった。

私は、原爆が落ちたとき、一六歳で呉に住み、広島女学院専門学校へ汽車通学しておりました。…七月はじめの呉空襲で、私の家は焼かれ、着のみ着のままに等しい格好でしたが、それでも心は晴れやかに、遅ればせの入学式に…
(P92 「廊下まで出た瞬間、ガラス窓ごしにピカッ!眼がくらむようでした」山口泰子氏、手記当時世田谷区経堂在住、被爆時は広島女学院校舎)

1945年7月末からとのことだが、呉から毎日広島へ通学している方もいたのだ。

被爆前の広島の描写で、そうだなあと思ったものを最後に挙げる。

私は広島へは行ったことがありませんでした。昭和二〇年五月に初めて行きました。それだから全然わからないんです。どこがどうだか。もちろん観光なんかできる時代じゃなかったです。川のきれいな町だなあとおもっていました。
(P58 「イエズス会修練院の神父さんたちに救われる」月田康子氏、手記当時世田谷区桜上水在住、被爆当時は広島市東白島町

その町の川に灯篭が流される季節(8月6日の原爆忌)が近くなった。広島は川の町だというのは、外から広島に来たからこそ発見できることだなあと思う。