広島豪雨災害:「八木蛇落地悪谷」の地名変更は江戸時代以前では
広島県広島市安佐南区および安佐北区で発生した豪雨災害は、予想を大きく超える事態だった。安佐南区も安佐北区も、わたしには思い出がある場所で、まして、被害の大きかったいずれの地区も、商業地や住宅地としてよく耳にする地名であったから、つらい以前に、未だに信じられないという気持ちの方が大きい。
ところで、被害の大きかった地区のひとつ、八木地区の昔の地名が「八木蛇落地悪谷」であったとフジテレビジョン「とくダネ!」が伝えたことを、J-CASTテレビウォッチというサイトが記事にしている。
「蛇落地悪谷」と呼ばれていた広島・土石流被災地―蛇が降るような大雨たびたび : J-CASTテレビウォッチ
同じテレビ報道を元にして、産経新聞も産経抄で触れている。
【産経抄】地名は警告する 8月27日 - MSN産経ニュース
少し気になるのが、これら2つの記事による説明だと、今の八木地区が元々「八木蛇落地悪谷」という地名であり、そこが「八木上楽地芦谷」と改名され、そのうち「上楽地芦谷」が省略されて「八木」となったと受け取る人がいないだろうかということ。
八木という地名は、昔から*1このあたり一帯を差す村名で、「蛇落地」という地名は、そのさらに細かな場所を指す字(あざ)だろうと思う。「悪谷」は、蛇落地の中にある土地を指すピンポイントの名称ではないだろうか。悪谷以下は完全な推測だけど。
ともかく、「八木」全体が以前「八木蛇落地悪谷」という名称だったと受け取った方がおられたとすれば、それは誤りということになる。*2
この蛇落地という字、イメージが悪いので、宅地開発における不動産売買のために変えられたと考える人が多い(J-CASTにより伝えられるとくダネ!のスタジオの様子も、そのようなイメージに基づいて語られているように思える)。
蛇落地悪谷…。たしかにこの地名では「売れない」だろうな。
— ゆるふわ森派 (@wshn) 2014, 8月 26
だが、ネットで昔の地図と現在の地図を比較できる便利なサービスがあり、これによって大正14年測図、昭和3年発行の国土地理院地図を見ることが出来る。
すでにこの時点で「上楽地」という地名が見える。蛇落地という地名は見えない。
安佐南区がベッドタウンとして開発されるのは高度経済成長期以降だから、少なくとも想像するような状況で地名が変わったわけではないだろう。
さて、今日、この本を調べてみた。時間が全然なかったので、ざっと読んだ程度だけど。
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この町史には、八木周辺地域においてかつて土石流があったことが記載されている。
それとは別に、おりおりに触れて、過去の記録に見える八木の様子が語られている。
その中、宝暦12年の八木村における土地調査結果が引用されていた。
この土地調査には、村・字(あざ)別に、どのような名前の地主がおり、どの程度の土地を持っているかが示されているが、その中にこのような字があった。
上楽寺。
「上楽地」「蛇落地」という地名を見つけることは出来なかったから、「蛇落地」「上楽地」という地名がこのように記された可能性は高いのではないかと思う。
宝暦12年は、1762年。もちろん江戸時代だ。宝暦元年には徳川吉宗や大岡越前が亡くなっているから、まあそのころの時代だ。ベッドタウンの開発なんて(この地域では)思いもよらなかった時代だ。
「蛇落地」の地名が変えられたのは、少なくとも住宅地のために土地を買わせる目的ではなかったといえるだろう。
「地」が「寺」に変えられた、「上楽寺」の地名に気付くことがある。以前、このようなツイートがTLを流れていた。
「上楽寺」(寺の寺号は「浄楽寺」)と、地名としての「蛇落地」はよく似てるけど、どちらがルーツで、どちらに呼び換え統一したのかは地誌を読まないとわからない。でも、そうとう古い話よ。明治時代じゃないかな。
— 山猫 だぶ (@fluor_doublet) 2014, 8月 26
確かに、とくダネ!において話をされていた住職の方がおられる「浄楽寺」は、「上楽寺」と音読みが一緒なのだ。浄楽寺の開基は元和5年(1619年)。寺の名前が地名を作ることも、逆に地名が寺の名前を作ることもある。これだけの材料ではなんともいえないが、地名に深く関わっている寺名であることは間違いない。
そして、「蛇落地」という地名にも気になることがある。
広島市文化財団 文化科学部文化財課が作成した以下のページには、附近にある観音堂が「蛇落地観世音菩薩」と呼ばれる、としている。これが私がネットを検索した中では、今年8月20日以前で唯一「蛇落地」という名を紹介しているページである(むろん検索に漏れはあるだろう)。
http://www.mogurin.or.jp/maibun/kojikodo/unseki/unseki2-6.htm
その観音堂の紹介の近くに、「18才、十五人力の香川勝雄が阿武山にいた大蛇を退治する話。」という「蛇王池の碑」の紹介がある。J-CASTにおいて、住職の方が話されていた「竜がいて、その首をはねたところ」とはこの香川勝雄のものだ。香川勝雄、実はwikipediaにも記事があるほどの人物だ。
香川勝雄 - Wikipedia
この大蛇(龍)退治は、「陰徳太平記」という、元禄8年(1695年)には成立していたとされる書物に記録されている。
近代デジタルライブラリー - 陰徳太平記. 合本1(巻1-18)
「香川勝雄大蛇を斬る事」
記録によれば天文元年(1532年)の出来事。
この故事が土石流を比喩的に伝えていたとしても、先の佐東町史によれば、これは地区の昔ばなしとして語られていたようだ。地区の人々にとってこの話がたいそうお気に入りだったことは、先の、「蛇王池の碑」の紹介文に「蛇王池の位置そのものがあいまいでわかっていないため便宜的に現在位置に建てられた」とあることから想像できる。
だとすると、これまでの話とは逆に、「上楽地(あるいは上楽寺)」が、故事に関係があるのだからと想像(創造)され、「蛇落地」という地名が作り出されたという可能性もあるのではとさえ思えてしまう。
これは私のおかしな思い込みだ。しかし、仮に先人が警告のため「蛇落地」という地名を名付けていたとしても、江戸時代の人々はすでにそれを香川勝雄の故事に結び付け、さらに「上楽地」という地名に変えてしまったのだ。「地名は警告する」という訴えの趣旨はよくわかるし、意義深いことであると思う(そしてそういう考察は私は大好きだ)けれど、我々から見ればいにしえの人から見てすら理解できなかった警告を、今の時代に生きる我々が(一般の人が)どうして理解することができるだろう。
少なくとも、それを無視したといって、批判されるいわれはない。ネットにはそんな批判が間々見られる。
ましてや、「蛇落地」なんて地名、地域の歴史本を10分ちょっと読んでも見つけられない程度の地名なんだよ*3*4。ようやく見つけたとしても「昔蛇退治があってね」と説明されて、そこからさらに土砂災害の可能性を、疑うことが出来るだろうか。
※続きの記事を書きました。よろしければ、あわせてお読みください。
地名から災害を読む難しさ(続・八木蛇落地悪谷) - 顧歩日記
*1:931年~938年の承平年間に編まれたとされる「和名類聚抄」に「養我」との記載があり( 国立国会図書館デジタルコレクション - 和名類聚抄 20巻. [4] )、これを「養義」の誤りとして八木のこととする説がある(この注釈9月1日追記)。
*2:もっとも、初めに報道した「とくダネ!」では、「八木三丁目」の地名が「八木蛇落地悪谷」だったと説明していたそうだ。
*3:佐東町史を読めた時間は本当に短く、ろくにメモを取る余裕もなかったので、記憶に頼って書いている部分もある。「宝暦12年」「上楽寺」は間違いないが、その他の部分でニュアンス等が異なっていたらごめんなさい。
*4:その後改めて佐東町史を読んだが、「蛇落地」の表現は、「蛇落地観世音菩薩堂」(上の広島市文化財団のページで言及されているものと同じ)の紹介で使用されていたものの、他には記載がなかった。ここでの「蛇落地」は観世音菩薩堂の名称として挙げられており、地名としての記載ではないように思われる。なお、蛇落地観世音菩薩堂は、先に触れた「上楽寺」の記載が見つかる宝暦12年(1762年)より後の、弘化4年(1847年)に現在地(上楽地)に移設されたものとされる。弘化4年まで「上楽地(寺)」と「蛇落地」の2種類の表記が併存していたのか、観世音菩薩堂移設にあたって蛇落地表記を行ったのか、そのいずれなのかはこれだけではなんとも言えないように思う(この注釈9月1日追記)。