地名から災害を読む難しさ(続・八木蛇落地悪谷)
前回の記事について、twitterで紹介いただく方がおられたおかげで数日でYahooやgoogleの検索順位が上がるようになり、その後モバイル版Yahoo!で取り上げられ、さらに数日してYahoo!ニュースの関連記事としてリンクが貼られ、1万を越えるアクセスをいただくことになりました。
近いうちに新たな記事を作成するつもりでしたが、結果的にこんなに遅くなり申し訳ありません。
「蛇落地悪谷」の「悪谷」について
前回の記事では、「蛇落地」の地名について書いたが、フジテレビ「とくダネ!」や産経新聞「産経抄」が報じる「悪谷(あしだに)」が「芦谷(あしや)」に改名された話については、当時調べたネット等で見当たることができず、あまり深く触れることができなかった。
そうしたところある方が、ツイッターで前回の記事を紹介いただきつつ、以下のような考察をなさっておられた。
前述の蛇落地、今のところ文献による確認ができていなくて、地区の長老に伝わる純然たる伝承だとしたらすごいことだが、どこかに書いてある可能性の方が大きいだろうね。悪谷については、足谷古墳群、足谷遺跡という記載がある。
http://t.co/kUoSVNs2B4
— 小林じゃ (@bras_de_Squid) 2014, 8月 29
「足谷古墳群」……ふりがなまでふられている名称は確かに「あしたに」であり、読みだけで言えば「悪谷」「芦谷」という漢字をあてることもできそうだ。
この足谷古墳群は、どういう経緯でこのような名前になったのだろう。古墳を指す名称として古くから地元に伝わってきたのか、それとも、この場所の地名なのか。
「想いでの佐東町」という書籍(戦前戦後の佐東地区の写真集である)の冒頭に、昭和40年代の「旧佐東町字名図」というものが掲載されていた。関係する部分のみトリミングしたものを載せる。
(佐東地区まちづくり協議会「想いでの佐東町」1996.8より。赤線は筆者にて付記。なお、トリミングのため空白の区画が生じているが、図の左下は一級河川の太田川であり、右上は「宇津」という地名となっている)
昭和40年代には「足谷」という地名があったのだ。 「足谷」地区にあった古墳が「足谷古墳群」と呼ばれるのは、自然な成り行きだろう*1*2。
「蛇落地」地名伝承、「上楽地」の場所
先の方が、今回の災害以前に「蛇落地」に触れていたネット記事を発見して呟かれていた。
梅林小のホームページ見てたら蛇王池の伝説の中に蛇落地が出てくる。2つ目の発見だけど、これも伝承。地域にそういう口承があるのは間違いないが、実際にそういう地名だったとういう証拠はまだ見つかっていない。
http://t.co/cykee6SPEI
— 小林じゃ (@bras_de_Squid) 2014, 9月 4
「大蛇が落ちた場所を蛇落地というそうです。」
リンク先は小学生が書いた文章だが、今回テレビで放送された方とは異なる方が「蛇落地」の名前を語っていることがわかる。しかしここでも、大蛇退治伝説とセットであり、今回のような土石流と結び付けられることはなかったといえる*3。
さて、昭和40年代の地図では「上楽地」と「足谷」は別の場所として書かれていた。しかし、上楽地が指す範囲は、前回の地図に引用した地形図を見ても、もっと広かったように思われる。おそらく、「上楽地」というのは、地区の中心地を指す地名でもあり、地区全体を指す地名でもあったのではないかと思う。
そもそも、地名が指す範囲は時代によってかわりうるという指摘もあった。
縁起の悪い地名が変えられるのは昔からあること。多くの場合読みだけ残って字面が変わるだろう。指摘されているとおり宅地開発のために地名が変更されたわけではない。それであれば○○台とかもっと響きのいいイメージ地名になっただろう。
— ちずらぼ (@chizulabo) 2014, 9月 1
そもそもそれ以前に当初は字名でなくピンポイントに谷を指した地名だと思う。
— ちずらぼ (@chizulabo) 2014, 9月 1
災害地名はそもそもその地名がどこを指しているのかを見極めるのが難しくてやはり古い地図を見ることは必須。もともとピンポイントの地名が今では広い範囲を表すようになっていることも多い。
— ちずらぼ (@chizulabo) 2014, 9月 1
また現「上楽地」の地域(おそらく昭和40年代の地図の地域だろうか?)についてはこのような実態もあるらしい。
多くツイートされている八木の「蛇落地」については出典が確認できないが、大正時代の古地図には既に上楽地の地名があって、「金儲け主義の不動産業者が名前を変え」は疑わしい。ただ、上楽地という地区は今もあって土石流の直撃はなかったというから、古人の伝承は生きていたのかもしれない。
— 小林じゃ (@bras_de_Squid) 2014, 8月 29
そうだとすれば、むしろ上楽地と呼ばれる土地は、安全な場所であった可能性がある。報道から得るイメージからは真逆である。いかに地名からの類推が難しいかと思える。
八木地区における災害史
佐東町史を紐解いても、災害としての記載は殆ど水害についてばかりである。
大体こういう地域史の本は、第1章が地質や地形の解説から始まることが多い。この本もそうであり、その中では土石流が繰り返されたことが書かれている。しかしそれ以降の歴史のセクションでは、私の見落としでなければ、土石流やがけ崩れといった治山関係に類することの記述がない。この地域は崩れれば広い範囲が被害に遭う地形をしている*4にもかかわらず、記述がないのは不思議なことといえる。また、昭和33年3月*5に佐東町が発行した「新市町村建設計画書」には、「治山治水」の項目があっても、その内容は治水のことばかりで、治山には触れられない。このことからいえば、相当長い間、この地区において土石流の発生はなかったのであろうと思える*6。
佐東・八木地区において、洪水がかなり大きな支障であり続けたことは、近年については、佐東町史の冒頭、「監修のことば」において「先々年、佐東地区は二度にわたり大水害を蒙ったことによって旧家古邸に保存されていた古文書類が大量に流出」とあることから、昔については、江戸時代の村高の解説のページにおいて「度々ふれたように佐東町の場合は洪水がやたらとあり川成り*7になった土地は多い。しかし、洪水によってそれらの史料は失われ、本当の姿を知ることはできず、村々のかつぎ高*8の状態もはっきりつかまえることができない」(P201-202)とあることなどから想像できる。
この街において洪水に重点が置かれ続け、頻度の低いであろう土砂災害に注意が向けられなかったのは、ある程度の時期までは、理由のあることではなかったかと思う。
地名と災害
先ほど書いたように、この地区では洪水が度たび起こっている。それがために地名や土砂災害に関する過去の記録が消失していたことも十分に考えられる。「蛇落地」や「悪谷」について文献がないことが、すなわちそのような地名が存在しなかった説明にはならない*9。また、その語源が土砂災害をきっかけにするということも、否定はできない。(9月9日、「八木蛇落地悪谷」について説明した文献があるらしいことを知った。詳細→*10 ) (9月11日、「八木蛇落地悪谷」について説明しているらしいと私が考えた『日本山岳ルーツ大辞典』の阿武山の項目には、実際にはその記載がないことを確認した。詳細→*11 )
ただ、これまで見てきたとおり、「上楽地」という名称が使われたのは、ネットで調べられるデータからしても、少なくとも戦前よりも前であることは明らかだし、さらに調べれば江戸時代からあることは明らかと考える。報道機関もこの説明をした地元の方にこの点を尋ねれば、少なくとも使用時期の説明があっただろうと思う。それなのに現代における土地取引のイメージと絡めるような取り上げ方をすることは、問題がないとはいえないのではないかと感じる。
今回、一連の記事を書いて、昔の地名をさぐることはとにかく難しいことだということを実感した。土地にもよるだろうが、図書館で少し調べるくらいではよくわからないこともある。かつ、それを解釈することもまた難しい。命名の感覚は今と昔では相当違うことも考えられる。古い地名が仮におどろおどろしいものであったとしても、今の言語感覚でもって、その土地に住む人を批判する材料として使うべきでないと考える(行政が治山対策のきっかけとして利用するということはありえるかもしれない。それはしかし、実際の土地調査の補助として使うべきものだと思う)。
「THE PAGE 広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン」について
前回の記事のアクセス数が伸びたのは、「THE PAGE 広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン」というニュースをYahooが紹介するにあたって、関連記事としてリンクを貼っていただいたことが理由だった。浄楽寺や広島市郷土資料館、安佐南区役所への問い合わせに基づいて書かれた記事はとても参考になるし、また、前回の記事を多くの人に読んでいただいたきっかけであるのに申し訳ないけれど、1つ指摘しておきたい。
最大の避難所となっている梅林小学校は「ばいりん」と呼ばれていますが、「梅」は土砂崩れなどで埋まった「埋め」が語源であることが多いとか。…やはり地名は丹念に読み取ることで「警告」を浮かび上がらせることができそうです。
「梅林」は、江戸時代の安芸(広島)藩が編纂した地誌である「芸藩通志」にも記載のある古い梅林(植物の梅の林。梅の名産地であった)に由来するもので、「埋める」に関連するものではない。今は梅林はないらしいのが残念。
この記事からしても、やはり、地名から過去の災害を云々することは、かなり慎重に行うべきであるように思う。
雑感
前回の記事を書いた後、安佐北区へボランティアに伺った。通りがかった安佐南区緑井・八木の、よくテレビで報道されるようになってしまった風景を見ながら、今回の災害が広範囲かつ、まだらに発生した事を実感した。何キロも離れた場所が崩れる。崩れた場所だけが被害に遭う。そのすべてで、災害を示唆する地名があったわけではないだろう。そんなことは当たり前だが、「蛇落地悪谷」ばかりがあまりに強調されすぎるのを見ると、他の地域でも災害が発生していることを忘れられてはいないかと、気になる(私が「蛇落地」に関する記事を書いたために、自分にとって目につきやすくなっただけかもしれないが)。
この記事は以下の記事の続編にあたります。併せて読んでいただければと思います。
広島豪雨災害:「八木蛇落地」の地名が変更されたのは江戸時代以前では - 顧歩日記
*1:前回記事執筆時、この広島文化財団のページの記載にどうして気付かなかったかと思うと残念だが、いったん「あしや」になった地名が「あしたに」に戻るということに思いが及ばなかったし、この点、報道では説明がなかったことに疑問が残る
*2:なおこの図ではわかりづらいが、小原までが「八木」の範囲であり、小原の向こうの西側が「緑井」になるようだ
*3:大蛇退治伝説については、こういうものもあるそうだ。 家にあった郷土史の本「新廣島城下町」(1974年、広島郷土史研究会編)に、阿武山の大蛇の頭骨とされる写真。
「阿武山に大蛇が居たかどうかは疑問視されていたが(中略)この大蛇の頭骨が保存されていたことが判り、多年の疑問が氷解・・・」 pic.twitter.com/nYypGvmfzI
…えーと。
*4:今回の災害を受け土木学会が行う調査の速報(8/21)は、広島県の土砂災害危険指定を引きながら「実際にはこの地域の(線路周辺の狭い範囲を除く)ほぼ全域が危険地域に指定されているともいえ,危険地域を避けるとどこに住めばいいのか」としている
*5:佐東町における人口の急激な増加は昭和35年頃からとのこと(GYS都市計画推進懇談会「GYS地域開発基本計画概要 1968」)なので、まさにその直前といえる
*6:土木学会の現地調査では、今回の土石流によってえぐられた地面から、過去の土石流の痕跡が多数みられるようである(広島豪雨災害8.22-23 | 土木学会中国支部「元々あった地山にも土石流堆積物の痕跡が見られる」など。)
*7:洪水などによって耕作不能になった耕作地
*8:耕作されない土地に賦課された年貢
*9:しかし、前回記事のような想像もできるとは思う。
*10:スポーツ報知の辛坊治郎氏のコラム「【辛坊持論】行政の責任は重い「蛇落地悪谷」での惨劇」に、地名研究家であった池田末則氏(元奈良大講師)のご令嬢からの手紙として、「『日本山岳ルーツ大辞典』の広島県の阿武山という項目に、土砂災害を起こした八木という地名のルーツが載っております。雨が多い場所で、ひとたび大雨が来ると大蛇に見立てた土砂崩れが起こった地域であったことも書いてあります」と紹介し、さらに手紙からの引用でない地の文で「ちなみに、この地域はかつて「八木蛇落地悪谷(やぎじゃらくじあしだに)」と呼ばれていたそうです。」との記載あり。大蛇伝説を土砂崩れの見立てとする説明は、フジテレビ報道以外ではネット上で初めて出てきたものだと思われる。後日辞典を確認したい。(この注釈9月9日追加)
*11:辛坊氏が紹介する手紙にある「日本山岳ルーツ大辞典」を確認したところ、「阿武山」の項目はあったが、この項目に「八木蛇落地悪谷」の地名の記載はなかった。ご令嬢が「大辞典」以外の池田氏の研究資料を元に手紙に書かれたのであれば格別、そうでなければ、これは辛坊氏が追加した情報であって、そのソースはやはりフジテレビ報道であった可能性がある。また、この記事中で引用された手紙には「土砂崩れが起こった地域であったことも書いてあります」とあるとのことだったが、「阿武山」の項目には土砂崩れのことは書かれておらず、阿武山にちなむ民話として大蛇退治伝説を紹介する中で「(大蛇に)勝雄が切りかかると天地鳴動して雨を呼ぶ」とあるのが、唯一天候に触れられた部分であった。これはいったいどういうことなのか。辛坊氏の記事を受けて「大辞典」を確認した時、辛坊氏記事への私の理解と、実際の大辞典の書き方があまりに違った為、正直言って愕然とした。(この注釈9月11日追加)