「八木蛇落地悪谷」資料集というかメモ

これは、「八木蛇落地悪谷」の報道に関連したブログを書くにあたって、集めた記事や資料等をメモ的にまとめたものです。
以前のエントリに自分の考えを書いており、それが本編にあたるので、基本的にはそちらをご覧いただければ幸いです。
以前のエントリ2つ


「八木蛇落地悪谷」報道

平成26年8月豪雨における2014年8月20日の広島土砂災害は、74人の死者を出す惨事となった。このうち、最も顕著な被害のあった「八木3丁目」あるいは「八木」について、以前は「八木蛇落地悪谷」という地名であり、「八木上楽地芦谷」に改名された後、現在の形になったという報道が一部でなされた。この地名は、「昔は蛇が降るような水害が多かったので、悪い谷・悪谷と名がついた」と説明された。

地名「八木」について

上記の通り、「八木」という地名そのものがかつて「八木蛇落地悪谷」であり、現在の「八木」の地名は「蛇落地悪谷」が落とされたものであるというかのような報道もなされたが、過去の文書における「八木」の使用状況からいって、その可能性は低い。

地名「蛇落地」について

報道されるように「上楽地」という地名はあり、地元において、これがかつて「蛇落地」であったとの伝承はある。ただし「上楽地」は少なくとも江戸時代から使用されていた名称であり、これが「蛇落地」からの変更であることについての文献上の証拠は今のところ見つけられない。後述するが、この地元の伝承における「蛇落地」は大蛇退治伝説の関連で説明されており、土砂崩れと結びつけられて伝えられたものではなかった*3

  • 1762年 『宝暦十二年沼田郡八木村地こぶり帳』に「上楽寺」の地名が見える。(佐東町史p210)
  • 1880年 八木村会の選挙区区分けの地名に「上楽地」の地名が見える。(佐東町史p337)
  • 1928年 昭和3年発行の地図に既に「上楽地」が見える。
  • 「蛇落地」のことばは観音堂(像)の名称としては現存している。この観音像は「蛇落地観世音菩薩」と呼ばれ、1847年(1762年より後である)に阿武山山頂から下したとされている。(佐東町史p183)
  • 上楽地の名称は、現在も町内会の名称として使用されている。(広島県が今回の災害を受けて公表した『土砂災害警戒区域・特別警戒区域図〔急傾斜・土石流〕梅林地区』の図には町内会名が記載されており、これにより確認できる。なお、本図は9月16日以降に削除される可能性がありそうである)

地名「悪谷」について

悪谷、あるいは芦谷についてはその地名が確認できなかったが、『想いでの佐東町』(1996年、佐東地区まちづくり協議会)に掲載の「旧佐東町字名図(昭和40年代)」には、読みが通じると思われる「足谷」という地名が見える。

蛇落地・大蛇退治伝説

蛇落地の伝説については、八木小学校100周年史として発行された『しらうめ』(1976年、広島市立八木小学校)に詳しい*4
それによると、

  • 何千年も経た大蛇が阿武山の中腹に住んでおり、人里に降り来ては人畜に被害を与えていた。
  • 1532年2月27日、八木城主香川家の香川八将の最年少、香川勝雄が志願によって退治した。
  • 斬られた大蛇の首は8丁(約870m)東南へ飛んで田の上(のちに「刀延(たのぶ)」という)に落ち、さらに西へ1丁飛んで田の上に落ちた。
  • 流れる血は川(のちに「帚溝(ほうきみぞ)」という)のようであり、沼ができた。
  • 最後に大蛇の首が深くかくれ入ったところを、「蛇王池(じゃおうじ)」と呼ぶようになった。
  • 蛇王池のある地区を「蛇落池(じらくじ)」(「地」ではなく「池」である)と呼んでいたが、のちに「上楽地」になった。

というものであると、記されている。

地域災害史

佐東町史」によれば、冒頭の「佐東町の自然環境」の章には、「阿武山山麓には、複数扇状地が重なりあう複合扇状地が形成されている。(p4)」「本町の扇状地は、背後に急斜地を持つことから、幾度もの土石流が重なって形成されたと考えられる。角ばった巨礫を多く含み、斜面の途中に突き出た段丘が見られる(写真有)が、これは土石流の原形といえる。(p6)」と説明されている。しかしながら、歴史について説明している章に入ると、洪水のことは時折書かれるにも関わらず、土砂災害の説明は皆無になる。
1958年に佐東町が発行した、これからのまちづくりの展望を記した『新市町村建設計画書』*5を見ても、「治山治水」の項があるにもかかわらず、そこには治水についてのみが書かれており、治山については書かれていない。
また、八木には「大禹謨碑(太田川改修記念碑)」という碑があり、これには過去この地区が太田川決壊による水害に苦しめられたことが記されており、治水がこの地区における重要な課題であったことがわかる*6

地質の情報

土石流発生後の調査からは、過去に土石流が発生していたことが改めて記されている。

土石流の実態が詳しく調査され、写真付きで報告されている。えぐられた地面から過去の土石流とおぼしきものが見えていることも記載(8月22-23日調査)されている。

新聞報道を含めた複数の資料を引きながら、地質と人為的な原因から発生原因を考察している。マサ土が分布していても必ずしも崩落してはいないこと、八木や緑井の崩落した地域については、尾根付近の比較的堅硬な岩石の上に降る雨水がそのまま谷に流れ、谷に集まったことと、急傾斜および谷筋に及んだ宅地開発が被害を拡大したのではないかと考察している。

マスコミでの取り上げられ方

この地区における災害史や伝承等について、マスコミでは冒頭に挙げたもの以外でも、以下のような取り上げ方がなされている。

浄楽寺における「蛇落地」の認識等が書かれている。

「地盤が弱く、家を建ててはいけないと教えられていた」との古い住民の言葉があったと記載されている。

「武士の家計簿」を著した先生。佐東町史に書かれた、土砂災害のシグナルに特に注目している。*7*8

八木の歴史・地名研究

佐東町史以外にも、八木地区の歴史や地名について検討した論文を見つけた。

地理学と歴史学から、古代~明治維新までの広島を俯瞰する論文。冒頭に、古代以降の広島は、都からの街道を引くにも、海岸附近に平地がないため内陸に入らざるを得ず(古代山陽道は山陽自動車道とかアストラムラインのあたりにあったりする)、奈良時代には山陽地方において年貢の海送が許可されたが、広島デルタの発達によって、近世、山陽道は南に移り(江戸時代の山陽道は本通を通る)地域の中心は安芸武田氏の銀山城から広島城に移るという概観が説明される。八木の城山があるあたりの太田川を「八木の狭隘」と呼び、対岸の玖村と含めて解説している。江戸時代に完成した八木用水が阿武山麓の上楽地(じょうらくじ)を通ることについて、阿武山の伏流水を得られやすいこと、洪水の被害が少ないことが計算されたのではないか、と推察していることが注目される。
なお、山本の山津波というものが出てくるが、このようなものであったらしい。

上記の続編。八木を中心とした地域では、洪水被害がたびたびあったのに何故栄えたのかについての回答が冒頭にある。つまり、稲作をする面で有利だったからということだ。満潮時に塩分を含む水が来ることがなく、かつ、稲作に必須の水も入手容易である。これより上流では洪水の際の水勢が強く、下流では洪水の際の海の引き潮の力で家が壊れる。また、洪水は肥沃な土壌をも運んでくる。そうはいっても洪水の被害は大きく、細野神社(八木城の北にある小規模な神社)には、堤防の大改修を行った熊野忠左衛門の石碑があることを説明しながら、この石碑が村民により建立された一方で、並び立つ、八木用水(現在もその成果が称えられることの多い農業用水で、今次の災害では土石流の土砂で埋まったため、今後の大雨時の排水のために、急きょ国土交通省により土砂が撤去された)を完成させた桑原卯之助の碑が卯之助の孫により建立されているという興味深い対比に注目している。また、扇状地については「阿武山塊からの崩落土によって(緑井の植竹付近は扇状地の様相を示す)早くから東へ押し出され」と言及している。

この2つの論文は、自然堤防や微高地などの地理地学用語があったり、参照している地図がPDFではちょっとみづらかったりとやや読みにくい(わたしの個人的事情ですが)点があるものの、内容は大変興味深く、また八木「十分一」「代」や「市ノ坪」といった地名についても考察が加えられている点にも注目される。きっとこの方に、蛇落地や悪谷について伺えば、なんらかのお答えがあったのではないかと思ってしまう*9が、日本地理学会のホームページには、2005年に同名の方がお亡くなりになったことが記されていることからして、それは叶わないことのようで、残念だ。

また、歴史地名研究とはちょっと違うが、地元の地理学の先生(広島大学教育学部の先生のようだ)が、当日被災地を確認したブログがあった。

「以前から広大や非常勤先の授業で,八木・緑井は土石流性の扇状地が広がっていると話していた」、また、次の記事にあった「ほぼすべての谷が土石流の危険性がある広島の場合,危険なところに住むなとはなかなか言いにくい」という言葉が印象的だ。

*1:なお、『日本山岳ルーツ大辞典』阿武山の項に、「雨が多い場所で、ひとたび大雨が来ると大蛇に見立てた土砂崩れが起こった地域であった」と書かれているかのような説明があるが、実際の『日本山岳ルーツ大辞典』阿武山の項には、そのような記載はない

*2:なお、いくつかの資料で「養我」を「ようが」と読んだうえで「八木」のこととするものがある(たとえば『あさみなみ散策マップ―八木ルート―』など)が、「我」が「義」の誤りであるという説を基にするならば、「ようがと読んだ」という説明は変な気がする。元々「ようが」と呼び「養我」と書いたものを、どこかで羊がくっついて「養義」と書かれるようになり、「やぎ」と呼ばれ、やがて「八木」と書かれるようになった、ならわかるのだけど

*3:ただしもちろん、大蛇退治伝説が土砂崩れの比喩として創作されたことが否定できるものではない

*4:『しらうめ』の説明に筆者名は記されていないが、後述の『THE PAGE 広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン』には、地元の寺院である浄楽寺前住職・桐原慈孝氏によると読み取れる記載がある。桐原慈孝氏は、『しらうめ』編纂委員会の委員長を務めていた。なお、『しらうめ』の存在については、wikipedia日本語版の管理者で広島の関連項目を作成されているtaisyo氏に紹介いただいた。

*5:1955年制定の「新市町村建設促進法」により、作成が定められていたものであったらしい

*6:このような禹王の碑は全国各地にあり、10月には広島で第3回禹王サミットが開かれる予定であったが、今回の災害を受けて中止されたとのこと。

*7:ところで、記事にある1937年の「三菱重工広島製作所の従業員団地」とは、前述の広島県土砂災害警戒区域・特別警戒区域図の町内会のうち「三菱八木社宅自治会」とある場所にあったのではないかと想像する。現在、この区域にマツダの社宅らしいものがあることはわかるが、三菱の社宅は現存しているのだろうか。

*8:この2つの記事は、こちらのブログから発見した。

*9:地名は人間がつけたものであるが、人が土地を離れては生活できない以上、地名も自然的なものと、人間的なものの二種類がある」ということばをのこしてらっしゃるそうだ