新世界遺産・中国、ハニ族の棚田(1・行くまで)

先日カンボジアプノンペンで開かれた世界遺産委員会では、富士山の登録が大きく注目され報道された。この委員会では当然ながらほかの国の世界遺産も登録され、そのニュースをぼうっと眺めていたところ、なんとぼくが以前訪れた「ハニ族の棚田の文化的景観」(雲南省紅河ハニ族イ族自治州・元陽の棚田、元陽梯田)が登録となったことを知った。
たまたま訪れていた所が世界遺産になるのは(なんとなく)大変光栄なことなので、まだ記憶がそれなりに残っているうちに、その当時(2009年)の旅行記を書いておきたいなと思う。

雲南省省都昆明

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昆明から棚田のある元陽まで行くには、公共交通機関としてはバスしかなかった。昆明の北のほうにある観光地(大理、シーサパンナとか)には空港もあるのだが、南の方には、少なくとも旅客便を取り扱う空港は殆どない。たぶん今でも同じはずだ。
バスは、直行便もあるが、その途中に位置する建水という街になんとなく惹かれて、まずはそこへ立ち寄り1泊してから元陽に行くことにした。

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昆明のバスターミナル。行き先ごとに乗車場所が定められていて、バスが待っていた。今は移転してこのバスターミナルではないらしい。
中国ではバスの運転手が居眠りして起こす事故も多いと聞いていたので、結構緊張する。

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途中のドライブインみたいなところで売っていた白い何か。確か、お酒らしい。
このドライブインは下道にあったが、途中高速道路も通った。高速道路は日本と遜色ない程度に整備されていて、とても快適だった。


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3~4時間ほどで建水。

建水(紅河ハニ族イ族自治州、建水県)は人口50万人というが、それはまわりの農村地帯をあわせての数だと思う(だとすると、どれだけ農村に人が住んでいるのだろうとも思う)。中心地である臨安鎮に宿泊したが、そこまで大きな街とは感じられなかった。

建水の観光も楽しかった。別の機会に是非書きたい。

ここからバスに乗ってごとごとさらに南へ、今度は確か高速道路はほとんど通らなかった気がする。

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追い越す車がボロボロだ。

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道路は、時々センターラインがなくなるが、概ね快調。

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元陽市街が近づくにつれ、棚田が見えてきだした。否が応にも期待が高まる。

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分かれ道だ。右が元陽(元阳)、あと14キロ。
ちなみに左に曲がって146キロと出ている河口は、中国・ベトナムの国境の街だ(余談だけど、ここには昆明からのメーターゲージの鉄路があり、ベトナムへつながっている。昔は旅客列車が走っていたが、今は貨物のみという)。

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牛も連れられている。もう夕方。農作業が終わったのだろう。


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…そしてようやく元陽(紅河ハニ族イ族自治州、元陽県)に到着した。
元陽の市街は大きく二つに分かれていて、ひとつは新街という旧市街(ややこしい)と、もうひとつは南沙という新市街だという。棚田観光の拠点になるのは新街のほうだ。バスによっては新街まで行ってくれるらしいが、ぼくのバスは南沙どまりだったので、ここからタクシーを拾わねばならない。

バスターミナルの近くで止まっていたタクシーに声をかけ、新街まで行ってほしいとお願いする(ぼくの中国語は下の下で、声をかけるところまでは言えるけど、あとは全部辞書を引きながらの筆談です。漢字文化圏ばんざい←現地民からはけっこう面倒くさかったろう。すみません)。
ホテルはどこか?と聞かれ、決まってないと答えると、ホテルを紹介するという。そして、棚田観光するなら、明日朝から案内するよと売り込みされた。明日一日案内して運賃はこれこれと提示され、ネットで見た相場とあまり変わらなかったけど、少しだけそれより安くしてもらった(たしか100~150元の間くらいだった。1元16円くらいなので、正直言って値切るほどの価格ではなかったと今となっては思う)。

案内されたホテルは、ゴキブリが出た以外は快適だった(皮肉っぽく聞こえるかもしれないが、本当に快適だった)。スーパーを物色したりしながら夜を過ごした。

朝6時、約束通りにやってきた運転手が部屋のドアをたたく。連れられて昨日のタクシーに乗り込んだ。(続きます…そのはず)

台所用洗剤の歴史

先週日曜日の朝、9時前ごろに目覚め、Twitterを覗くと、TLはこの時間としてはいつものようにプリキュアの話題で持ちきりだった。
テレビをつけると既に番組終盤であり、本編数分とエンディング、次回予告が見られたのみだった。
その次回予告で、おそらくヒロインの家にやってきた新キャラらしき女の子が家事を手伝おうとして、野菜が沈められた洗い桶に洗剤を投入する場面が「野菜洗うのに洗剤入れちゃだめだよ」というヒロインの突っ込み音声とともに流された。

野菜、洗剤…なんとなくもやもやしているところに、TLに流れてきたツイートに反応したところ、結果としてtogetterに纏められてしまった。
野菜の清浄化の歴史 - Togetter

そこでもう少し調べようと図書館に行くと、「日本中性洗剤協会二十年史 台所用中性洗剤の歩み」なる本を見つけた。なぜ野菜を洗剤で洗うのか、洗剤はどのようにして誕生したのか等についてが業界の視点から語られていて面白い。
日本中性洗剤協会二十年史―台所用中性洗剤の歩み (1983年)

この本と一部ネットの情報を元に台所用洗剤について纏めてみることにした(安全性については検索をかければ山ほど出てくるので今回は書きません)。

台所用洗剤誕生以前の皿洗い事情

  • 日本の食事は、欧米に比べて脂肪や蛋白質が少なかったため、水洗いで事足りていた。幕末の書物によると、「毎食後に膳椀の類は洗わず、ただ、月に4~5回これを洗う。その間は、ふきんにて之を拭き納む」(喜田川守貞「守貞漫稿」)ともあった。
    • 昭和40年代後半の調査では、ごく少ないとはいえ、カレーやシチューといった場合以外は洗わないという家庭がまだ東京に存在した。
  • 戦前の食器洗いは、基本的に流水は使わず、洗い桶につけ、束子かふきんでこすり、溜水で濯ぐというやり方で、脂肪分の多い汚れについては、かまどの下の灰、みがき粉が使われていた。
    • 海外居住経験のある家庭、高級官僚の家庭においては、クレンザーと粉石鹸を半々にしたものを入れ、たわしにつけてこすることがあった。
    • カットグラスのある家庭においては、海綿に粉石鹸を付け、上等の漆器は酢・梅酢で洗われた。

洗剤の開発

  • 第一次大戦下のドイツで封鎖による油脂類の不足が生じ代替品の製法を模索。
  • 第二次大戦において世界的に油脂枯渇。石鹸に代わる洗浄法の研究開発が進む。
    • 日本においてもモノゲン(1935年「DK300番」→1937年「モノゲン」→1964年「モノゲンユニ」→2006年終売。ただ工業用の「モノゲン」は今も販売)などの油脂系合成洗剤(高級アルコール系合成洗剤)が発売。

rakuten:練りモノゲン

  • 終戦後昭和26年、油脂を原料としない鉱油系合成洗剤(アルキルベンゼン合成洗剤)が発売された(「ソープレスソープライポン」ライオン、「ソープレスソープワンダフル」花王)。
    • この2製品は衣料洗濯を主な用途としたが、容器には食器・野菜・果物の洗浄にも利用できると記載されていた。

高まる野菜・食器洗浄のニーズ

衛生

  • 日本では以前から屎尿を肥料として用いられており、昭和三十年代では、この影響により、国民の30%は回虫を保有している状態。
  • 食品・食器・調理用具の不衛生・手洗いの不全により、赤痢等の経口伝染病患者は著しい高率。
    • 生食野菜の摂取の増加。
  • 人口増に伴う農作物増産のため、今では使用されない強力な農薬(パラチオン・BHC・ヒ酸鉛等)が利用され、残留農薬による事故が報道。
  • 米ソによる核実験のため放射能灰落下による農作物汚染。

油料理

  • 昭和10年に対する昭和30年の食用油の1人あたり消費量は2.5倍に、バターは2.2倍に、マーガリンは25.1倍に。

台所用洗剤の誕生

  • 昭和31年5月、業界新聞「日刊油脂・製品特報」が座談会を行い、「野菜洗浄国民運動の兆し」として報じた。

厚生省「厚生省で頭を痛めているのは回虫の問題であり、野菜に付着した虫卵を除去するよい方法はないか」
メーカ「鉱油系合成洗剤の利用が有効であり、この洗剤の特長は石鹸と異なり、野菜・果物洗い用に、中性に作ることができ、無臭で冷水にもよく溶け、洗浄力も強い」

  • 厚生省は座談会を受け、鉱油系合成洗剤の洗浄力、安全性について確認を開始した。
    • 国立予防衛生研究所寄生虫部にて回虫卵の除去性能を確認
    • 国立衛生試験所薬理部にて急性毒性試験を実施
  • 昭和31年9月、厚生省は「野菜類・食器等の合成洗剤による洗滌について」を各都道府県知事宛に通達。
    • 同年「ライポンF」(ライオン。1960年代末終売。業務用は現在も販売)発売。概ね2年ほどで主要メーカの商品が出揃う。

ライオン ライポンF粉末 10kg

洗剤使用による野菜洗浄のその後

  • 昭和47年6月、食品衛生法改正。野菜・果物・食器用の洗剤に規定が適用されることになる。
  • 昭和47年8月、台所用洗剤のJIS制定。
  • 昭和48年4月、食品衛生法の規定にもとづき、成分規格と使用基準が定められる。
  • 昭和48年、東京都、水銀系農薬、パラチオン、BHC、DDT等の有機塩素系農薬が禁止され、寄生虫も減ったとして、野菜・果物の洗浄は水洗いでよいと発表。同時期大阪府も同様の発表。
    • 塵埃、排気ガスの煤、重金属類等への作物への汚染、農薬自体が使われないわけではないことから考えると引き続き洗剤を利用すべきとメーカ経営者(の一部)は考えていた模様。

この間がちょっと飛んで

  • 一般家庭では野菜果物も洗うニーズが廃れた
  • 野菜・果物を洗う中性洗剤ではなく、弱酸性、弱アルカリ性の食器専用の洗剤も台所用として発売されるようになる
    • 依然として業務用では野菜果物を洗剤で洗うニーズが残っている

日本石鹸洗剤工業会 石けん洗剤知識 台所

となったようです。

バンドの印税は解散後10年で貰えなくなるという話

バンドが解散してまた復活するのは、バンド解散後10年で印税が貰えなくなるから。 だからそれまでに一回復活して印税貰える期間をまた10年延長する 。 #知らなかった方が幸せだった雑学
https://twitter.com/omoshiroihanasi/status/263555374366474240

というツイートを見かけた(記事を書く間に、いつの間にか消されてた)。

そもそも印税とはなんだろう。手元の辞書を見ると、著作権の使用料、とある。著作権料と考えていいのだろう。ロックバンドなんかだと、なんとなくメンバー自ら作詞作曲して、自ら演奏・歌唱していることが多いような気がする。とすると、ここでいう、バンドの人たちがもらえる「印税」は、

  • 作曲の著作権
  • 作詞の著作権

のそれぞれにかかる使用料、ということになる(演奏・歌唱による権利はそれで著作物(=楽曲)そのものを生み出すわけではないので、著作権とは区別され、著作隣接権と呼ばれることがある)。ここで演奏・歌唱の著作隣接権の使用料というのは、とくに、「アーティスト印税」とか「歌唱印税」(演奏の場合は…?)とかいうらしい。作曲、作詞の印税は、「著作権印税」「作詞作曲印税」と呼ぶようだ(Wikipedia「印税」)。

著作権法によれば、著作権や著作隣接権の保護・存続期間は、著作権ではその著作者が亡くなった日の翌年から50年、著作隣接権ではその行為を行った日の翌年から50年となっている。著作隣接権の方が普通は早くにその日が来るけれど、少なくとも10年という短い期間になっているわけではない。

じゃあ、だから冒頭のツイートは誤りか、ということになりそうだけど、少なくとも上の規定を辿るだけでは、誤りとは言い切れない。ような気がする。

そういう契約がないとは言いきれない

楽曲そのものは、作詞・作曲家と契約を結んだ「音楽出版社」が彼らから「譲渡」を受ける(譲渡しても、一定の期間が経過すると著作者に返還されることもあるようで、一般的な意味の「譲渡」とは違うらしい)。音楽出版社はそれら楽曲を管理する。たとえばCDを製造販売したレコード会社は、JASRACに著作権料(CD定価の6%)を支払う。JASRACは手数料を差し引いて、これを音楽出版社に支払う。音楽出版社は、手数料を差し引いて、作詞・作曲家に支払うことになる。

演奏・歌唱に支払われるアーティスト印税は、レコード会社から支払いを受けたプロダクションが(?)契約にもとづいてアーティストに支払うことになる。

ところが、作詞作曲印税、アーティスト印税ともに、アーティストが実際のところどの程度の支払いを受けるかは、アーティストとその他関係者(音楽出版社、プロダクション、レコード会社等)との間の契約によることになる。もしもアーティストが条件を受けさえすれば、原則的にはどんな内容での契約もできる。
1975年に発売され、未だにシングル盤としての売上枚数記録1位を保持している「およげ!たいやきくん」の歌手は、枚数にかかわらず一定額の支払いを受けるという契約だったがために、 吹込み料として5万円をもらったのみだった、というエピソードがある。
ひょっとしたら、もしバンドを解散したら、10年間は印税(作詞作曲印税?アーティスト印税?)を支払うが、その後は再結成しない限り支払わない、という契約があるバンドもあるのかもしれない。

と、いろいろ書いてきたけれど、ほんとにそんな契約ありうるのかなあ…とどうもすっきりしない。
上のツイートのとおり、音楽を職業とされている方が「知らない」と言っている。

話の出所

で、この話は一体どこから出てきた話なんだろう。

検索してみると、2chにこんなものが見つかった。

知らないほうが幸せだった雑学 20
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1348292557/

377 :おさかなくわえた名無しさん:2012/10/30(火) 19:13:10.49 id:uALvIEOP
バンドが解散してまた復活するのは、バンド解散後10年で印税が貰えなくなるから。
だからそれまでに一回復活して印税貰える期間をまた10年延長する

http://cherio199.blog120.fc2.com/blog-entry-7630.html

これだ。多分、最初のツイートの元ネタはこれなんだろうと思う。10月30日に書き込まれて、ツイッターに乗って僕の目に触れたのが11月1日。けれど、2chに書き込まれる前に、さらに元ネタがあったはずだ。テレビで誰かが言ってたとか、本に書いてあったとか、2chは2chでも、別の板なんかでずっと以前から囁かれていたとか。さらに探してみた。そしたらあった。

ロックバンドって解散してもだいたい復活するよね
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1350991458/

285:風吹けば名無し:2012/10/23(火) 21:24:32.82 ID:4Q5RS/Cp
バンドが解散してまた復活するのは、バンド解散後10年で印税が貰えなくなるから。
だからそれまでに一回復活して印税貰える期間をまた10年延長するんや。
ソースはやしきたかじん

307:風吹けば名無し:2012/10/23(火) 21:28:58.68 id:pVj6oh7f
>>285
たかじんはあんまりあてにならんで

http://3keta.net/blog-entry-2693.html

読む限り、ソースが一応書かれているから、多分、この285さんがネット上の本当の元ネタなのではないかと思う。

で、どうもテレビか何かで言っていたことの伝聞らしい。もしそうだとすると、元々の発言者の意図通りのことが書かれていない可能性がある。
バンドが解散して10年も経てば、いかに一世を風靡したバンドであっても、徐々に世の中から忘れ去られ、放送でも曲が掛けられなくなり、カラオケでもあまり歌われなくなる。復活することで再び過去の楽曲含めて印税が入るようになる…もしかすると、それが元の「やしきたかじん」(本当にやしきたかじんが発言したのか定かでないので、括弧をつける)の発言の趣旨だったのじゃなかろうか。

童謡「赤とんぼ」の「ねえや」は本当に15でお嫁に行ったのか

赤とんぼの3番の歌詞に、「15でねえやは嫁に行き」とある。
昔は若くしてお嫁に行ったんだなあとずっと思ってきたけれど、先日ツイッターで「大正時代、最も早婚だった青森でも、15歳でお嫁に行く女性は全体の5%だった。赤とんぼの歌詞は現実とは違う」という趣旨の呟きが目に入って驚いた。

けど、本当に赤とんぼの歌詞は現実と異なっていたんだろうか。

赤とんぼは作詞者の実体験が元になっている

Wikipediaで「赤とんぼ(童謡)」を検索すると、こうある。

三木が1921年(大正10年)に、故郷である兵庫県揖保郡龍野町(現在のたつの市)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれ…

作詞者、三木露風は1889年(明治22年)に生まれた人だ。そのような人の子供時代は、明治時代になるのだろう。となると大正時代の童謡であっても、明治時代の状況も考慮すべきだろう。しかし郷愁は微妙な表現だ。実際に体験したことなのか、そうではないのか分からない。

さらに検索すると、次の随筆を見つけることができた。
赤とんぼのこと 三木露風

私が作った童謡に「赤とんぼ」と題する作がある。(略)これは、私の小さい時のおもいでである。

「小さい時のおもいで」とある。単に「郷愁」という以上の意味合いがあるように思う。

本当に結婚したのか、結婚したとして15歳だったかははっきりしない

「おもいで」による歌詞だということがわかったが、肝心の「15で…嫁に行き」は、どの程度記憶が反映されているのだろうか。
先の随筆をさらにひいてみる。

家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の廣場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た。そのことをおぼえている。
(略)大分大きくなったので、子守娘は、里へ歸った。ちらと聞いたのは、嫁に行ったということである。

まず「ねえや」が実の姉のことではなかったことに(いまさら)驚く。「家で頼んだ子守娘」だったという。そして三木は、この子守娘について「ちらと聞いた」としか書いていない。「大分大きくなった」とは言っても子供だったろうから、子守娘の年齢や本当にお嫁にいったのかどうかなどは、あまりよく分からなかったとしても無理はないように思える。
しかしそうすると、彼女は15歳だったのか、そもそもお嫁に行ったのかさえ、はっきりしないことになってしまう。
詩として見たとき、15で嫁に行き、とすると、ほかの年齢よりも何か切なさが募るような気がする(ぼくは)。思い出を元に作詞するときに、詩としての良さを優先させて15としたのはありえる話だ。

ねえやの頃の結婚事情

だからといって、15歳で嫁に行った可能性がないというわけではないだろう。
先にあげたツイートは大正時代の統計をあげていたが、作詞者の「おもいで」が元だとすれば、詩が発表された年を基準とすべきでないように思う。
では、「おもいで」はいつの頃の話だったか。

若き日の三木露風 (近代文学研究叢刊)

若き日の三木露風 (近代文学研究叢刊)


の4ページから5ページに、

露風がまだ幼稚園に通っていた二十八年の早春、かた(引用者注:母)は勉(引用者注:明治25年5月に生れた弟)をつれて鳥取の堀家(引用者注:かたの実家)に帰った。露風は祖父母のもとに引きとられ(中略)た。(中略)かたは間もなく東京小石川表町の久松学舎々監となっている堀正(引用者注:かたの養父)を頼って勉をつれて上京した。そして東大病院付属看護婦養成所の講習生となった。勉は三木家に引き取られ、露風と同じく祖父母のもとで養育されることになった。母に去られ悲しみに沈んでいる露風を宍粟郡山崎出身(?)の姐やが慰めて、よく面倒をみてくれた。(中略)露風作「赤蜻蛉」の第三節に詠まれている姐やはこの人であろうという。

と書かれている。この、「この人であろう」は、有本芳水が昭和41年5月28日にこの本の筆者に語ったところによるようだ(引用文のハテナはママ)。
この姐やがいつまでいたのかは見つけられなかった。明治22年生まれの作詞者は当時5~6歳であったが、明治25年5月に生れたばかりの弟もいたとのことだから、実は、姐やは主としては弟のためにいたのかもしれない。
歌の歌詞と上の随筆によれば、作詞者はこの姐やに背負われたことがあるとのことだが、弟についてもそのくらいの年まではいたとすれば、3年くらいは奉公したのかもしれない(作詞者本人の上の随筆は「大分大きくなったので」と自分の成長を理由にしているが、それを無視すると)。
仮にそうだとすれば、奉公を終えたのは明治31年くらいか。

明治32年の統計によれば、女性の結婚年齢が19歳以下であったものが、
総数297,372件に対し100,854件(33.9%)だった。
参考までに、「赤とんぼ」の詩が発表された大正10年は、
総数519,217件に対し135,505件(26.1%)
ずいぶん違うとはいえないが、15歳の結婚も冒頭のツイートよりもう少し多かったのではないだろうか。
19歳以下の年齢別の具体的な資料がきっとあるはずなので、機会を見てもう少し調べたいと思う。

ちなみに結婚における年齢の下限が定められたのは、明治31年7月から施行された民法(この部分は戦後改正されたので「明治民法」という)によるようだ。

765条 男ハ満十七年女ハ満十五年ニ至ラサレハ婚姻ヲ為スコトヲ得ス

現行民法では男18歳女16歳。

明治民法の施行以前は、どうやら一般には年齢制限はなかったようだ。明治の結婚 明治の離婚―家庭内ジェンダーの原点 (角川選書)によると、明治15年ごろ、結婚・離婚を規制する「結婚条例」が制定されるという噂が各新聞で取り沙汰され、実際にいくつかの草案なるものが掲載されたそうだ。「明治の結婚~」の筆者はいう。(以下、「明治の結婚~」からの引用)

第一は、「男二十歳、女十八歳(満年齢)を婚姻適齢」とすることである。とくに女子が当時の標準(数えで十七―十八歳)より高くおかれているのが注目されるが、十三―十四歳からあった早婚の弊害を防止するにはよいとする賛意が多かった(p77)

この結婚条例案は、結婚にあたって政府に対して預け金を強制し、事前に役所と警察の掲示場に当事者2人の氏名を掲げて異議を確認するという点が特に話題になったようで、

今度本邦でも結婚条例が発布になると云ふ噂のあるゆゑ、予め用心する訳かと知らねど、岩船郡村上辺では、早婚が大流行で、男は十五歳、女は十三歳位にて婚姻するので、嫁りて手球を撞き、娶りて独楽を弄ぶもの到る処に多くあるによし(p78、新潟新聞明治15年6月28日から)

神戸市内では、(中略)その前に済ませなければと慌てる人が多い。まだ十歳にならない子に構わず結婚させる。(pp78-79、朝野新聞明治17年3月22日から)

と、結局制定されなかった(それどころか、正式に審議された形跡も見つからないという)結婚条例を通してではあり、特殊な事例ではあろうけど、年齢制限がなく、それが結婚として認められていたというのが分かる。

作詞者の母は15でお嫁に行った

作詞者の母、明治5年10月10日の生れだそうだ。結婚したのは、明治21年4月28日。とすると、まさにこのとき15歳(父は慶応2年1月10日生れで、結婚時には21歳だった)。
ねえやは分からないが、母親がお嫁にいったのは15なのだった。

* * *

「赤とんぼ」が世に出たとき、きっと「姐や」は存命であったことだろうと思う。何か書き残していたり、近所で話していたりしないだろうか。赤とんぼに関することは、これまでも色々な人が研究してきたようなので、きっと、新たな事実が出てくることは望み薄なのだろうな。

セルフサービス制

ぼくが通ってた大学の生協食堂は、カフェテリア方式だったのだけど、料理を机まで自分で運ぶ時に、誤ってこぼしてしまったら、無料で新しい食事を用意してもらえるというサービスがあった。

「みなさんに料理を運んでいただく代わりのサービス」ということになっていたけれど、セルフサービスの食堂全てでこういうサービスをやっているわけではないだろう。料理をこぼすことなんて結局無かったけれど、注文するときに安心感があった。ただ、高い料理をこぼせばそれだけ高い料理がただでもらえるので、ちょっとした不公平感もあった。

今もやっているんだろうか。もしかし大学生協の食堂はどこでもそうなのだろうか。

 

…こういう何の結論もないような、どうでもいいことは短文にしてツイッターでつぶやけばいいもんなあ。ブログ書かなくなるわけだ。

けど、フォロワーに強制的につぶやきが流れるツイッターより、クリックしなきゃ見ることのできないブログの方が、いわゆる「つぶやき」にちょうど良いような気もするのに、ブログにどうでもいいことを書くのが憚られるのはなんでだろう。

ブログのタイトル

ブログはタイトルを決められることが、かえって面倒に思う。SNSならこのあたり、自分のハンドルを決めたら、他に何かしらの命名をすべきことはほとんどない。「ミニブログ」とはいえ、Twitterが気軽に始められるのも、TwitterがIDとハンドル以外に決められる名前が殆どないからだ。少なくとも自分にとってはそうだった。

このはてなブログは、ブログ作成の時点で「koinobori's blog」のようなタイトルがデフォルトで入っているけれど、これは変更できる。

はてなブログの新着一覧で上がってくる他の人のブログを見ていると(まだユーザが限られているせいで、「新着一覧」の動きが緩いのは、如何にも草創期のサービスという感じがする。悪くない)、このデフォルトのタイトルを使う人は半分もいないようだ。

「○○(ハンドル)の日記」というのも定番ではあるけれど、はてなダイアリーの新着一覧を見ていても、そういう単純な名前のブログはそんなにはない。

タイトルよりも中身がよほど重要で、タイトルは拘るべきところではないのは分かる。実際、「○○の日記」という名前で、人気のブログも少なくない。むしろ、妙なタイトルをつけたことで書けることが限定されてしまえば、3日坊主の、放置されたブログにつながってしまう。

けれど、新着一覧に流れるセンスのいいタイトルを眺めていると何がしか考えたくなる。一体、みんなどうやってタイトルを考えているのだろう。センスはともかくとして、せめて何か意味のあるタイトルができないだろうか。

 

そういう視点でいろいろなブログを見て、辞書をひいていると「顧歩」という言葉を見つけた。
《こほ。かえりみてあるく。あちらこちら見ながら歩く。》


このブログで当面書くであろうことは、思ったことや感じたこと、旅行記の類だと思う。
「顧歩」なら、旅行記にはぴったりだし、あれこれ考えるということだって「顧歩」と解釈してもいいような気がする(あれこれ考えながら答えにたどり着いていくことは、「歩く」ことになぞらえられそうだから)。

幸いに、まだ「顧歩」をタイトルとしたブログもないようだ。単に「顧歩」では寂しいので、これに「日記」を付けて「顧歩日記」と当面名付けてみることにした。

はてなブログを始めました

足あと制度の変更以来、mixiでの日記がなんとなく詰まらなく感じていました。たまに日記を書いても、どれだけの人が見てくれているのかリアルタイムにわからなくなってしまったし、後から上がってくる訪問者履歴を見ても、以前よりも見てくれる人が減ってしまったようでもあるし。

ブログは、誰が見ているのかわからないのはmixiどころではなく、実際、見てくれる人もずっと少ないはずです。が、検索サイトを通して記事の内容を必要としている誰かが読んでくれる可能性はブログの方が高いと思います。そうしてやって来た人が、何かのコメントやアクションをくれることがあるかもしれません(あまり望むべきでないのはわかっているつもりですが)。

そう思って、久しぶりにブログに戻ろうかと思っていたところに、「はてな」が新しくブログサービスを始めたと聞きました。ベータサービスということで利用できるユーザも限られているところ、なんとかうまく利用権を手に入れることもできました。

そこで「はてなブログ」を始めることにしました。どんな内容にするのかまだ決めていませんが、とりあえずやってみないことにはと思います。元々mixiの日記に書くべきことをこちらに(も)書くつもりなので、いわゆる「ウェブログ」というよりは、単なる「日記」になってしまうのだと思いますが。